|
今号から何回かに分けて宮本武蔵について書いてみたい。タイトルに「転換期を生きた宮本武蔵」と付けたのは、武蔵が生きた時代が文字通り転換期であったことにもよるが、同時に必要人材の転換期でもあり、武蔵自身そのことを認識し、自らを変革しようとしていたという主体、客体ともに転換期にあったと考えるからである。こう見る時、武蔵の生き方はすぐれて現代的な課題として浮かび上がってくる。 では、武蔵は自らをどう変革しようとしたのか(必要人材への変身)。変身は成功したのか、それとも失敗したのか。武蔵はなぜ六十歳近くになって仕官したのか(中高年者の活用)。「五輪書」で書き残そうとしたのは剣の奥義なのか、それとも戦略論なのか(個人の能力とチーム力の問題)。そしてそれは、武蔵が意図した通りに仕上がったのだろうか(戦略と戦術論)。以上のような観点から、武蔵の生涯に迫ってみたいと思う。 ところで宮本武蔵といえば、多くの人がストイックな剣の求道者を想像するに違いない。それはあまりにも吉川英治氏による「宮本武蔵」が有名だからで、宮本武蔵=吉川武蔵という図式が成り立っているからであろう。特にお通との関係は、求道者=清廉潔白という図式を見事に表現しており、人々に「さもありなん」という感情を抱かせたのは言うまでもない。 だが、残された資料で見る限り、武蔵に女性の陰はまったく出てこないのである。唯一それらしい女性が出てくるのは西の武蔵塚に刻まれた墓碑銘のみである。ともあれ武蔵自身の行動規範とでもいうべき「独行動」が吉川武蔵の下敷きになったのは間違いない。 主な項目を列挙してみると。 一、世々の道そむく事なし 一、身に楽しみをたくまず 一、よろずに依怙の心なし 一、我事において後悔をせず 一、恋慕の道思ひよる心なし 一、身ひとつに美食を好まず 一、仏神は尊し仏神をたのまず 一、常に兵法の道をはなれず まさに求道者武蔵の面目躍如といったところだ。 さて武蔵の実像だが、残された資料はあまりにも乏しい。確かと思われるものは、五十一歳で小倉の小笠原藩に現れて以後、熊本で死ぬまでの十一、二年間の資料ぐらいなものだ。もし武蔵が「五輪書」を書き記していなければ、講談で語られる伝説上の剣豪で終わっていたかもしれないと思うぐらいだ。あとは武蔵の養子、伊織が小倉に建てた碑文と武蔵没後百十年たってから書かれた「二天記」ぐらいなものだ。それぐらい武蔵の生涯には不明な箇所が多い。とりわけ巌流島の決闘で有名な佐々木小次郎との試合以後、再び小倉に現れるまでの二十数年間の消息はぷっつりと切れている。 武蔵といえば二刀流というほど武蔵と二刀流は切っても切れない関係にあるが、面白いのは生誕地、生年、生母、そして墓までが二刀、つまり二つあるのだ。 生誕地は美作(みまさか)国讃甘(さのも)村宮本(現、岡山県英田郡大原町宮本)が通説だが、「五輪の書」の序文に武蔵自身が書いているところによれば「生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信」となり、生まれは播州(現在の兵庫県)ということになる。「二天記」でも「播磨国佐用の城主赤松二郎判官則村入道円心の末葉」と記されている。小倉の碑文には「播州之英産 赤松末葉 新免之後裔 武蔵玄信 号二天」とある。「二天記」の元になった「武公伝」(「二天記」の編者豊田景英の祖父豊田正剛の書いた覚書)になると「天正十二年二月播州ニ生ル少名ハ弁介ト云」とはっきり播州生まれだと言っている。にもかかわらず美作国、つまり作州説が通説になっているのは、美作に残っている系図や東作誌等の資料を総合した結果である。 いずれにしろここでは生誕地を限定することが本論ではないので生誕地として二カ所言われていると指摘するにとどめておきたい。讃甘村宮本から鎌坂峠を越えればそこはもう播州であり、どちらの説を取ろうとも、岡山県と鳥取県、兵庫県の県境近くに生まれたことはほぼ間違いないだろう。ちなみに美作は筆者の生誕地でもある。 ここでもうひとつ疑念を差し挟んでおくと、「五輪書」にはもともと序文なるものはなく、後世に書き加えられたものではないかという見方もある。とすれば序文に言う「生国播磨」の信憑性も今一つ疑わしくなってくる。 さてここまで武蔵の謎について書いてきたのは、読者に一度、吉川武蔵のイメージから離れていただきたかったからである。本稿で筆者が論を展開しようとしているのは剣豪武蔵でも、青年武蔵でもなく、中年武蔵であり、武蔵の変身の過程だからである。現代風に言い替えれば、中年以後の武蔵は何に働きがいを求めていたのかという点である。 次回では武蔵が生きた時代背景と、求められる人材像の変化、それに武蔵はどう対応しようとしたのかという辺りを中心に論を進めてみたい。
(英田郡ー読みはあいだぐん)
|