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「五輪書」によれば、武蔵は天正十二年(一五八四年)、美作の国讃甘(さのも)村宮本で生まれたことになる。ところが、養子宮本伊織の「宮本系図」では、生年はそれより二年早い天正十年と記されている。いずれにしろ武蔵が生まれた天正十年から十二年という年は、一つの時代が終り、新しい時代が生まれた時期である。 本能寺の変で織田信長が倒れたのが天正十年。豊臣秀吉が天下人への第一歩を踏み出した年でもある。翌十一年、秀吉は柴田勝家を賎ケ岳で破り、十二年には小牧・長久手の戦いで家康と盟約を結び、事実上の天下統一を果たしている。 武蔵が生まれた吉野郡讃甘村(播州説なら播州佐用郡平福村)は山陽道から因幡街道へ抜ける道筋の宿場町である(平福も同じ)。「豊臣様は偉いお方だ」。この宿場町でも寄るとさわると秀吉の出世物語で持ちきりだったに違いない。「いつかは俺も」。同時代の多くの少年達がそうであったように、武蔵も子供心にそう思ったことだろう。秀吉の手で天下統一がなされたとはいえ、ついこの間までは戦国時代である。戦国時代の掟は、強い者が勝つ、だ。強くなることが偉くなることであり、偉くなれば秀吉のような生活ができるのだ。百姓の子でも関白になれるのだから、可能性は誰にでもあるように思われた。秀吉は氏素性にとらわれず人材を登用していたから、なおのことであろう。 武蔵は強くなりたい、と思った。もし、彼が京や大阪、堺で少年時代を過ごしていたなら、違った方法を取ったかもしれない。だが、武蔵が少年時代を過ごしたのは、京や大阪の華やかな生活を実際に見聞きできる地方ではなく、まだ戦国時代の面影を強く残す地方の宿場町だった。それ故、偉くなるためには強くなることしか思い浮かばなかったし、実際それしかなかったともいえる。 そんな武蔵の希望を満たすチャンスは意外に早くやってきた。慶長元年というから、秀吉が没する二年前である。新当流の使い手、有馬喜兵衛と佐用郡平福の河原で勝負し、勝つのである。武蔵十三歳の時である。栴檀は双葉より芳し、というところか。ところが武蔵の意に反して、この勝ちは彼の生涯になんら変化をもたらさなかったようだ。それから三年後に、但馬の国(兵庫県)で秋山という武芸者と試合をして、やはり勝っている。ところが武蔵自身この二度目の相手はよほど印象が薄かったのか、それとも本当は左程強い相手ではなかったのか、「秋山と云強力の兵法者」としか記していない。だが、この二度の試合で武蔵は自信を付けた。 この後、武蔵は故郷を捨て、二度と郷里の土を踏んでいない。なぜだろう。恐らく楽しい思い出がなかったのだろう。例えば五木寛之は高校時代を筑後地方で過ごしているにもかかわらず、彼の小説には長い間、筑後のことが出てこなかった。逆に、筑豊は愛情を込めて書いているのに。また、つかこうへいは筑豊の山田高校に在籍していたにもかかわらず、彼は筑豊に触れたがらない。武蔵にも似たようなことが言えるのではなかろうか。できれば美作出身と思いたくない。そんな屈折した気持ちが、武蔵をして「生国播磨の武士」と書かせた可能性はある。 さて、故郷を出た武蔵はどこに行ったのであろうか。若者が行く場所は今も昔もただ一つ。人が多く集まり、ごちゃごちゃしていて、賑やかで、何か可能性がありそうな場所だ。当時は豊臣政権の膝元、大阪か、急ピッチで開発が進みつつある江戸しかなかっただろう。武蔵は大阪を目指した。折りしも大阪の町は兵法者であふれていた。長槍、刀、金剛杖など、それぞれが得意とする獲物を誇示するかのようにかざしている。足軽装束の者もいる。鉄砲を担いだ猟師風の者もいる。ある者は町でデモンストレーションを繰り広げ、ある者はあちらの屋敷、こちらの大名と頻繁に出入りしている。大量採用の話も飛び交っている。どこそこの大名はいくらで、あちらではいくらまでなら出すと言っているなど、召し抱え料の噂が飛び交う。誰もの目がぎらつき、そのくせ妙に浮き浮きしている。 いよいよチャンスがやってきた。武蔵はそう感じた。だが、結果は期待に反した。数の上では負けるはずがない西軍が負けたのだ。それもあっけなく。こんなはずではない。これは戦いではない。武蔵は戦場を敗走しながら、繰り返し呟いた。個人の力量に自信を持っている者ほど集団の力を認めようとしない。この時の武蔵がそうだった。集団と集団がぶつかり合って勝敗が決するなどということはおよそ理解ができなかった。誰一人強そうな者も、奮迅している者もいず、ワーという歓声が上がるや否や、刀を交えることもなく総崩れなどという現象は、どう考えても合点がいかなかった。 これは俺のやり方ではない。武蔵はそう考えた。いや、そう考えざるを得なかった。でなければ、この場の現象は説明がつかなかった。本来なら武蔵は、この戦いで集団の力学を学ぶべきだった。だが、それを学ぶには彼はあまりにも知識も経験も少なすぎた。それが武蔵にとって悲劇だった。 武蔵の夢は敗れた。多くの兵法者達の夢、一旗組の夢と一緒に。
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