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転換期を生きた宮本武蔵(3)
〜ジレンマの時代、その一〜



 関ケ原から四年ーー。武蔵は京に居た。集団の力学の前に成す術もなく破れ、どこをどう敗走したのか見当もつかぬが、身体はより精悍に、眼光はさらに鋭さを増していた。余程厳しい鍛練を積んだに違いない。若い時の一年、二年は年を取ってからの三年、五年に匹敵するが、この時の武蔵がそうである。年齢二十一歳。平均寿命七十五歳の現代なら、さしずめ二十八歳前後というところだ。恐いもの知らずの年齢である。事実、武蔵は「儂より強いものはいない」。そう思っていた。
 武蔵が京に現れた理由は一つ。勝って名を上げることである。だが何故、江戸ではなく、京に現れたのか。ここに武蔵の不明があったと言わざるを得ない。たしかに京は天子の膝元であり、大阪ではまだ秀頼が健在であった。大阪冬・夏の陣が起こり、豊臣政権が完全に消滅するまでにはさらに十年待たなければならない。つまりその間、江戸と大阪の二重権力状況が続くわけである。形としては徳川と豊臣という権力構造をとっているが、実質は新秩序と旧秩序の攻めぎ合いである。江戸が新秩序を、京・大阪が旧秩序を代表していた。だが、時代は新しい秩序を求めていた。同じ様なことが今日のソ連邦とロシア共和国の関係にも言えるだろう。
 守るべき何物も持たず、これから売り出そうとする武蔵は、本来なら新秩序の方に賭けるべきだったに違いない。ところが、武蔵は旧秩序の中でもさらに窒息しそうな場所、京を自らの売り出しの場に選んだのだった。新秩序の下で売り出すには時代に即応した新しい理論が必要になる。だが、それがない者にとって、新秩序は糊がききすぎたワイシャツのように肌のあちこちが擦れ、何とも着心地が悪い。その点、旧秩序は多少綻びていたり、問題があっても、まるでぬるま湯の様な温かさがある。旧秩序の中で生きようという明確な意志は武蔵になかったに違いない。だが、ここで江戸ではなく京を選んだことが、後の武蔵自身の生き方を決定付けることになる。
 「相手が問題だ」。武蔵は慎重に勝負の相手を物色していた。勝てばいいというわけではない。誰に勝つかが問題なのだ。勝ち方は問題ではない。
 武蔵が選んだ相手は「扶桑第一兵法者」の称号を持つ吉岡道場の当主、吉岡清十郎であった。「室町幕府兵法所」の看板を掲げているとはいえ、すでに室町幕府は化石のような京の町でさえ存在していなかったし、吉岡道場もこの頃では兵法指南より憲法染めの染織業の方が本業のようになっていた。だが、武蔵にとってそんなことはどうでもよかった。腐っても鯛だ。「扶桑第一兵法者」の称号を持つ相手に勝ちさえすればよかったのである。
 例えれば、吉岡清十郎はすでに現役を離れ、過去の栄光に生きているチャンピオンである。彼のチャンピオンベルトは彼だけのものであり、周囲の誰もが、そのベルトを彼のものにしたままにしておくことが、彼への思いやりだと思っていた。それが格式と伝統の中に生きる京の町のやり方であった。対する武蔵は礼儀をわきまえない田舎者である。事実、氏素性もよく解らない男だった。これでは挑戦状を突き付けられた方が迷惑というものである。だが、田舎者の恐さは時として手段を選ばないことである。この時の武蔵がそうである。上方の人間ならなにがしかの金子を掴ませて帰すことができる。ところが身形は卑しいのに金子は受け取らない。やむなく勝負に応じることになる。だが、結果は明らかだった。
 「これで名声が上がる」。清十郎を倒した武蔵はそう思った。ところが清十郎の弟、伝七郎が日を置かず挑戦してきた。さらに清十郎の一子又七郎を名目人にして、吉岡道場の門弟が総掛かりできた。一乗寺下り松の決闘である。この時初めて、武蔵は一人対多人数の戦いを経験するのである。後に、この経験が武蔵の兵法に大きく影響してくる。五輪書で武蔵が説く「一分の兵法」の延長線上に「大分の兵法」を位置付けるやり方である。
 例えば「五輪書・地の巻」に「太刀の徳を得ては、一人して十人に勝事也。一人にして十人に勝なれば、百人して千人にかち、千人にして万人に勝つ。然によって、わが一流の兵法に、一人も万人もおなじ事」と記している。つまり勝負(個人戦)も合戦(団体戦)も同じ理論だと言っているのである。この武蔵一流の論理は五輪書全体を通して繰り返し語られるのである。「火の巻」では「わが二刀一流の兵法において、合戦のことを火に見立て、勝負に関することを火の巻として、ここに書きあらわす」(徳間書店「五輪書」神子侃訳)として、「一人して五人十人ともたゝかい、其勝負を慥に知る事、わが道の兵法也。然によって、一人して十人にかち、千人をもって万人に勝道理、何の差別あらんや」と説いている。
 さて、武蔵にしてみれば世に出るチャンスだった吉岡一門との勝負だが、吉岡側の資料「吉岡伝」によれば、「武蔵ついに眉間を撃たれ出血はなはだ多し」という結果に終わっている。いずれにしろ武蔵の期待した結果は生まれなかった。「何故だ」。武蔵の自問は続くーー。


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