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世にいう「巌流島の決闘」は間違いなく武蔵物のハイライトである。が、ここでも相変わらず史実として残されているものは少ない。解っているのは武蔵が勝ったという事実だけである。佐々木小次郎の素性や年齢はもちろんのこと、通説になっている武蔵の遅刻についても異説がある。第一、勝った武蔵が何故、逃げるように船島を去らなければならなかったのか。仮に小次郎一派の報復を恐れてのこととしても、その後三十年近くも武蔵の消息は杳として知れないのだ。このことの説明をどうつければいいのか。謎は深まるばかりだが、とにかく話を先へ進めよう。 江戸で将軍家指南役の夢が破れた武蔵は、西国へ向かった。武蔵が西を目指したのには訳があった。豊前小倉の細川藩に長岡佐渡興長がいたからである。佐渡は父無二斎の門弟であった。そして細川藩の筆頭家老でもある。 今度こそ大丈夫だ。 武蔵は独り頷いた。京では狡猾な彼らの逆宣伝に負け、江戸では立ち合いすら拒否された。だが、今度は検使役が居る。よもや白を黒と言いくるめることはできないだろう。しかも藩主公認の立ち合いである。小次郎も口実を設けて拒否することはできないはず。この試合に勝てば、いよいよ仕官の道が開ける。そう思う一方で、油断は出来ないと気を引き締めるのだった。なんといっても相手は物干し竿≠フ異名を持つ三尺一寸(約九四a)の長刀を自在に操り、燕返し≠ネる秘剣を得意とする兵法者。尋常の立ち合いで勝てる相手ではなさそうだ。 小倉に到着してから、武蔵は小次郎の情報を集めることに努めた。 小次郎が生まれたのは越前(福井県)宇坂の庄、浄教寺村。性格は生まれつき豪放で、体は壮健そのもの。中条流の小太刀を編み出した富田勢源に子供の頃より師事して腕を磨き、大きくなってからは師の打ち太刀をつとめている。勢源は一尺五寸(約四五a)の小太刀で、三尺余りの太刀を相手にするのだが、師の相手をしているうちに、いつしか小次郎の腕は高弟達をしのぐほどになっていた。そしてある時、勢源の弟と勝負して勝ち、それがために勢源のもとを去り、自ら一派を立て岩流と称している。 刀身は普通二尺二寸(約六七a)前後が手頃とされている。対して小次郎の剣は三尺一寸といわれている。この物干し竿≠真っ向から拝み打ちするように構えて、進みくるや否やそのまま身を屈めるように降り下ろし、次の瞬間刃を返して切り上げる。ここまでを一連の動作で行うのだ。これが燕返し≠ナある。一の太刀を辛うじて躱せたとしても、次の切先を躱すのは不可能に近かった。 はて、どうしたものか。 考えてはみたものの、これといった妙案も浮かんでこない。そうこうするうちに試合の日、四月十三日が目前に迫ってきた。 「宮本殿、そこ許はお聞きおよびで御座るか。佐々木小次郎が主君忠興公の差し遣わされる御船にて船島へ渡るのを」 藩内には小次郎の門下生が多かったが、武蔵贔屓の藩士も増えていた。注進に来たのはそんな藩士の一人だった。 一瞬、武蔵は顔を曇らせた。だが、それは相手に気取られる程のものではなかった。 「左様で御座るか」 いつものように平然と答えた。 だが、それからの武蔵の行動は素早かった。家人に悟られぬよう長岡佐渡の屋敷を抜けると、いずこへともなく忽然と姿を消した。 大騒ぎになったのは試合の前夜である。佐渡は激怒した。まさか臆したのでは……。臍を噛む思いがした。が、家士の手前平静を装い 「武蔵のこと故、何か感ずるところあってのことだろう。そう慌てることはない」 と言い放った。 それにしても何故、一言もなく姿を消したのか。疑念は深まるばかりだった。 「武蔵殿の居所が解りました。下関の回船問屋、小林太郎左衛門宅にお泊まりでございました」 「はて、下関にな」 佐渡は何やら考え込んでいたが、しばらくして「明朝試合の刻限、違えなきこと」と記した書状を家士に持たせ、下関へ発たせた。 やがて武蔵から次のような書状が届いた。 明朝試合之儀に付、私其許様御船にて、向島に遣わさるべきの由仰せ聞けられ、重畳御心遣いの段忝なく存じ奉り候。然ども此回小次郎と私とは敵対の者にて御座候。然るに小次郎は忠興様御船にて遣わされ、私は其許様御船にて遣わさると御座候処、御主人へ対し如何敷く存じ奉り候。此儀私には御構い成されず候て然るべく存じ奉り候。この段御直に申し上ぐ可くと存じ候得とも、御承引なさるまじく候に付、態と申し上げず候て、 許へ参居し、御船の儀は幾重にも御断り申し候。明朝は 許船にて向島へ渡り候事、少しも差し支えなく御座候。能き時分に参り申す可く候間、左様に思し召さる可く候、以上。 四月十二日 宮本武蔵 佐渡守様 文面通りに解釈すれば、小次郎が藩主の船で行くのに武蔵が佐渡守の船で行けば、家老が藩主に対抗するようで後々気まずくなるかもしれない。それでは困るので自分は太郎左衛門の船で行く、と言っているのだ。だがーー。
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