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転換期を生きた宮本武蔵(7)
〜両雄同時に相会す〜




  「これ少し静かにしないか」
 太郎左衛門はいつになく厳しく内儀を叱った。
  「お前がそれそのようにそわそわと動き回るとこちらまで落ち着かないではないか」
  そう叱ってはみたものの、太郎左衛門自身も先程から落ち着かない時を過ごしていた。離れの様子が気になるのだ。
  どれ、お茶でも差し上げてくるか。そう独りごちながら、叱ったばかりの内儀の手前、わざとゆっくりと部屋を出た。ところが離れの側まで来た時、太郎左衛門の足がピタッと止まって動かなくなった。離れの明かりが消えていたからではない。まるで離れに結界が張られたように、それ以上足を進めようにも進めることができなかったのだ。
 武蔵は暗闇の中で結跏趺座していた。身体からは大きく小さく気が迸り出ている。やがてそれらの気は二つの大きなうねりとなって激しくぶつかり合っていく。どちらも一歩も譲らない。まるで武蔵と小次郎の戦いのようでもある。何度も激しくぶつかり合いながら、うねりはますます大きくなっていく。その時である、太郎左衛門が廊下に差し掛かったのは。人の重みで床がきしみ、静電気が起こったのか、二つのうねりはぶつかった瞬間大きな火花を発し飛び散った。
 「武蔵様」
 太郎左衛門は慌てて障子を開けた。
 「やあ主か。済まぬ。驚かせたようだな。だが案ずることはない。ついでにちと頼み事をしたい。櫂を二、三本都合してもらえぬだろうか」
 「それくらいはお安い御用ですが、櫂を一体どうなさるおつもりで……」
 と、言いかけたが、後半は言葉を飲み込んでしまい声にはならなかった。
 武蔵は太郎左衛門が持ってきた櫂の中から海水をたっぷり含み黒く変色した一本を手に取った。それはまるで鍛え抜かれた鋼のように逞しく感じられた。これなら大丈夫だ。小刀を取り出すと手元から四尺二寸余りの所で切断し、削り始めた。太郎左衛門はまさか武蔵が木刀を作っているとも思わず、しばらく興味深そうに手元を眺めていたが、
 「お弟子の方々も大変で御座居ますね。今夜の内に舟島に渡るとか渡らないとかお話しをされていましたから」
 世間話のつもりであろう、屋敷の外の様子に触れた。すると、櫂を削る武蔵の手が一瞬止まった。すぐに何事もなかったかのように動き始めたが、武蔵の顔には暗い陰が差したままだ。もちろん、太郎左衛門の位置からは光の陰になり、それとは見えない。それでも何やら気まずい雰囲気を感じ取ったのであろう。太郎左衛門は「つい長居をしてしまいまして」と自室へ下がった。後に残された武蔵は黙々と櫂を削り続けている。だが、心中穏やかではなかった。太郎左衛門が漏らした弟子達の行動が気になるのだ。試合の場には弟子達は参加しないというのが双方の申し合わせである。もし違えるような事にでもなれば、せっかくの仕官の道が完全に閉ざされてしまう。そう思うと居ても立っても居られなかったが、さりとてどうすることもかなわなかった。
 ついにその時は来たーー。
 慶長十七年四月十三日辰の上刻、というから午前七時頃である。通説では武蔵が刻限に遅れたことになっている。小説の類としては面白いが間違いである。武蔵の養子、宮本伊織が小倉手向山の碑文に明記しているように「両雄同時に相会」したのである。第一、検使役を立てての試合である。二時間も遅れれば試合放棄で負けである。潮流の関係で遅れたとする説もあるが、これもおかしい。海を知り尽くした回船問屋の屋敷に泊まっているのだ。先刻、潮の流れの変化などは承知済みである。試合に遅れさせたとあれば回船問屋の信用丸潰れである。
 武蔵と小次郎は細川藩の検使役に向かって軽く一礼をし、向かい合った。両者の距離は一間半ーー。
 勝負は最初の一撃で決まる。
 武蔵はそう確信していた。外せば自分がやられる。昨夜、シミュレーションを何度も繰り返したがその度に結果は同じだった。小次郎の一撃を辛うじて躱せても、そのまま下から切り上げる燕返しの二の太刀は避けようがなかった。どうしても初太刀で倒さなければならない。そのためには「懸かりの先」しかない。武蔵はそう感じていた。
 小次郎の物干し竿は刀身三尺一寸というのはすでに述べた。柄の長さがあるから実際の刀はもう少し長い。柄の長さは一般的に刀身の三分の一である。三尺一寸の刀身に対して柄は約一尺。つまり四尺一寸が物干し竿の長さということになる。メートル法に直せば約一二四aである。対して武蔵の木刀は四尺二寸。四aだけ武蔵の方が長いが、勝敗を左右するほどの違いではない。
 間合いは一七四a。武蔵はそう読んで、鋭い気合を発しながら、小次郎めがけて砂浜を走った。一方、小次郎は一七〇aと踏んでいた。四aの差である。その分武蔵の懸かりがわずかに早かった。
 えいっーー。
 武蔵の身体が宙に飛んだ。しめた。小次郎は喜んだ。武蔵が間合いを見誤ったと思ったのだ。拝み打ちに物干し竿を振り降ろす。それより一瞬早く武蔵の木刀が小次郎の頭上に振り降ろされた。

 



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