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巌流島の決闘は実に不可思議な戦いである。まず試合の刻限にしてからそうで、辰の上刻とも巳の刻とも言われている。小次郎の年齢に至っては十八歳から五十二歳までと実に幅広く、実像はおろか影すら見えてこない。そんな具合だから異説、異聞の類も多い。講談や芝居まで数に入れれば優に十は超えるに違いない。
講談、芝居の類はさておくとして、異説の中でも代表的なものに「武将感状記」「本朝武芸小伝」「二天記」「撃剣叢談」がある。「武将感状記」が著されたのは一七一四年。「本朝武芸小伝」が一七一六年。巌流島の決闘から数えておよそ一世紀後、武蔵の没後約七十年の作である。それから四十年後に著されたのが「二天記」であり、「撃剣叢談」に至っては武蔵没後二世紀に書かれたものである。ここまでくると史実というよりフィクションに近くなるが、それでも岡山藩の剣術師範の家に生まれた源徳脩が著したものだけに、まったくの作り話というわけではない。
まず「武将感状記」の中の武蔵に触れられた箇所から見てみよう。
「宮本武蔵は二刀を好む」で始まり、以下のように続く。
宮本武蔵は二刀をよく使っていたが、豊前小倉の藩主、細川越中守忠利に仕えることになり、京から小倉に向かっていた。途中、下関で待ち受けていた小次郎(原文では岸流)が武蔵に試合を申し込む。承知した武蔵は、船頭から櫂をもらって二つに切り、二尺五寸(七六a)と一尺八寸(五五a)の二本の木刀を作り、二刀を組んで構える。対する岸流は三尺(九一a)余りの長剣を振りかざし、武蔵めがけて拝み打ちに斬りかかる。それを受けはずした武蔵は小次郎の頭上に一撃を加える。身体を右に傾け、避ける小次郎。躱し切れずに左肩をしたたかに打たれはしたが、怯まず、そのまま踏み込んで刀を横に払う。武蔵の膝が切られた。が、それより武蔵が飛び上がっていたのが一瞬早かった。小次郎の刀は武蔵の革袴を三寸ばかり切り落としただけだった。振り降ろした武蔵の木刀が小次郎の頭を砕いた。
以上が「武将感状記」に出てくる巌流島の決闘の一部始終である。ここでは試合を望んだのは武蔵ではなく小次郎になっている。そして武蔵は二刀を使っているのである。
「本朝武芸小伝」ではどう書かれているのだろうか。ここでは、松平忠栄の家士で刀術と柔術に優れた中村十郎右衛門守和が老翁から聞いた話として載せられている。
「巖流、宮本武蔵と仕相の事……」
中村守和が老翁から聞いた巌流島の試合の様子を語り始める。
試合の場所、船島に渡ろうと船場に着いた小次郎は、あまりにも多くの人々が乗船するのを不審に思い、船頭に尋ねた。
「今日の船場は随分人が多いが、何事かあるのか」
「ご存じありませんか。今日は巖流という武芸者が宮本武蔵と船島で試合を致します。その様子を見物しようと、未明からこれこの通りの有り様です」
「その巖流ならこの私だ」
驚いた船頭は声をひそめて
「もし、あなた様が本当に巖流様なら、どうか行くのはおやめ下さい。例えあなた様の腕がどんなに素晴らしくても、宮本方は多勢で待ち構えていますからとても生きては帰れないでしょう。この船を他の場所に着けますから、早くお逃げ下さい」
と言う。
「なるほど。もし、そなたが言う通りなら私は生きては帰れないだろう。だが、試合の約束をした以上、例え死ぬと解っていても約束を違えるのは勇士のすることではない」
小次郎は毅然たる態度で言い放った。そして船頭に向かって
「きっと私は船島で死ぬだろうが、そうなったら私の魂を祭って水を手向けてくれんか」
と言いつつ、懐中より財布を取り出し船頭に渡した。
「私も男です、しかとお約束致しました。どうぞ後のことはご心配なく」
船頭は巖流の勇気と立派な態度に感じ入り、涙を流した。
やがて試合が始まり、巖流は「精力を励まし、電光のごとく、稲妻のごとく」技を尽くして戦うが、ついに敗れ、命を絶った。
この時、武蔵が手にしたのは櫂を削って作った木刀である。ただ「武将感状記」とは異なり二刀ではなく一刀だとしている。吉岡との試合では二刀を使ったという話もあるが、試合の時はいつも一刀で、武蔵が試合で二刀を用いたことはない、と同書では述べている。
両著が異なっている点はほかにもある。小次郎の人物像である。「武芸小伝」によれば、小次郎は武蔵側が多勢で待ち構えている中に敢然と一人で赴くヒーローである。これで小次郎が生き残ればまるで西部劇のヒーローだが、実はこの構図は「二天記」の吉岡一門との戦いの構図でもある。「二天記」は武蔵の没後百十年の作である。しかも徹頭徹尾武蔵側の立場で著されたものであることを考え合わせれば、巌流島の構図が吉岡一門との戦いの構図へと書き換えられた可能性を否定できない。疑問は小次郎の敗れ方にもある。ここに武蔵が戦歴書から消した一行の謎を解く鍵がある。
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