|
ここ数回は読者との双方向メディアとして稼働しているメルマガ「栗野的視点」です。
前々回のNo.260で「仏教の教え(ブッダの教え)はもっと理解されていいと思うのですが、僧侶の堕落に大きな一因があるのではないでしょうか。
ただ、これほど優れた宗教なのに他の2大宗教に比べてどこか存在感が薄いのは、仏教には分かりやすい教義がないからではないかと思っています。
仏教はとても哲学的です。
その部分が逆に仏教の理解を妨げ、広めにくくしているのかも分かりません。
むしろ欧米では仏教は非常に高く評価されているようですが、日本人の間で仏教が生活の規範にならないのはひと言でいえば僧侶の怠慢ではないでしょうか。
この点で僧籍にある人、あるいは仏教会に近い人からの見解が欲しいところです」
と書いたところ早速、現職住職から自戒を込めたコメントが寄せられました。
以下は広島県府中町、久蔵寺の二階堂住職から届いたコメントです。
僧侶の堕落という批判は僧侶の世界に身を投じたものとして身に応えました。
浄土真宗の宗派のみしか知りませんが、目に余ることを見聞します。
一昨年、72歳の住職が、少女淫行で逮捕されました。この住職は破門となりましたが、飲酒運転で逮捕される僧侶も数多く居ます。
駐車場を別に借りて外車を乗り回すもの、高級クラブの会員として夜な夜なクラブに通うもの、マンションを購入して別宅を構えるもの等僧侶として自覚に欠ける住職は数知らずと言う状態です。
どうしてこのような状態になったのか分析してみると、
1.寺は血族が後を継ぐのが基本になっていること。
2.門徒さんの支えでお寺が継続しているのを自覚していないこと。
3.何かあれば門徒さんに寄付を仰ぐのが習慣となっていること。
これらは、門徒数1000人以上の大寺の住職が多いのが現状です。
門徒さんの葬儀にも名士のとき以外は役僧にまかせ、自分は一段と高い所にいると勘違いしています。
これらの人は僧侶の一部です。
阿弥陀さまの前では、師弟の上下関係は無く「人類、皆、父母兄弟」と親鸞聖人は言われています。悲しみに寄り添うことが出来ない人は、僧侶に成る事も出来ません。
僧侶に成ることを「得度」といいますが、その得度研修で何も勉強してこなかったのではと思える人も最後は僧侶の資格が与えられます。
この人たちもお寺の跡取です。
お寺は宗教法人となっていますので、宗派に所属していても独立した法人です。
私は、後継者を血縁のない人にお願いしていますし、本堂庫裏の新設も門徒さんには、寄付を仰がず完成させます。
身寄りの少ない人が誰でも無料で入れる墓地も作りましたし、お布施をいただかず葬儀を勤めることもあります。お参りに出かけるときは、スクーターで出かけます。
毎年の決算のとき賽銭を施設に寄付しています。
全体的には、門徒離れが進んでいるといわれていますが、久蔵寺は、この2年間で新しく門徒になられた方が100名を超えました。
「楽しくなければお寺ではない」「誰でも何時でも参れるお寺」をモットーにこれからも悲しみの人に寄り添う僧侶を続けていきます。
宗教法人「久蔵寺」
二階堂 通郎http://www.kyuzozi-amida.or.jp/
上記HPに「坊主の独り言」というコーナーがあります。
読みましたが、これが結構面白いですよ。
彼は私の大学時代の友人で、ゆめタウンなどを展開している広島の「いずみ」の店長を経験し、その後同社グループの輸入雑貨取り扱い、ゆめタウンの中に出店しているエクセルの常務になりました。
その後独立しましたが、数年前から住職に専念(?)しています。
私の洋服のいくつかはゆめタウン博多店内のエクセルで買ったものです。(これは余談です)
仏教界の中に各種変化の動きがあるのは事実です。
迷ったときは原点に還れ、といわれるように、仏教とは何なのか、仏の教えとは?寺はどうあるべきか、というようなことを真剣に考えている若手僧侶達が増えつつあります。
ただ、まだ燎原の火のごとくとまではいかないようですが・・・。
|