老害と世襲が幅を利かせる人生100年時代


 この1年近くは何かある度に「平成最期の」という枕詞が付いていろんなことが語られてきたが、いよいよ「平成」が終わる時が来た。「平成」が終わったからと言って何かが変わるわけではない。新しい元号で始まるだけで、変わるのは4月始まりの手帳ぐらいなものだろう。

平成とともに幕を閉じた人々

 元号が変わると大騒ぎしているのは日本だけで、世界の国々では4月31日は2019年だし、5月1日も2019年のままで、正月やクリスマスを迎えるほどの高揚も変化も感慨もないだろう。
 それは若い人達にとっても同じかもしれない。彼、彼女達は日常的には元号より西暦の方を使う傾向があり、むしろこの機会に元号を廃止して西暦に統一した方がいいとさえ考えている人達も少なからずいるようだ。
 かくいう私も西暦統一派で、大正○年、昭和○年生まれと言われても即座に相手の年齢が分からない。それはただ単に算数が苦手なだけだと揶揄されそうだが、少なくとも日本史と世界史を見比べている時などは西暦で統一した方が同時代の日本と世界を対比して理解しやすいのは間違いないだろう。

 これは余談だが、私は日本史は好きだったが世界史は苦手だった。苦手な理由の1つに登場人物の名前がカタカナで、それがなかなか覚えられなかったこともあるが、もう1つは時代感覚が捉えられなかったからだ。
 まあ、これは教え方にもよるのだろうが、世界史は世界史という形で独立していて、日本史との関係の中で見ていないから全く別物を見ているようで面白くなく、また当時は受験にも関係なかったから勉強しようという気もなく、そのことがますます世界史を面白くなくさせていた。

 それはさておき、元号が持つ魔力みたいなものを最近感じている。例えば今年になって有名人が次々に亡くなっている。広く知られている人の名を挙げるだけで兼高かおる、天地総子、市原悦子の各氏が1月に、2月には堺屋太一、佐々木すみ江、ドナルド・キーンの各氏。そして3月に入ると内田裕也、萩原健一の各氏が相次いで亡くなっている。昨夏以降にまで広げるとさらに多くの芸能人が、まるで申し合わせたように亡くなっている。
 中には60代前半というまだ若すぎる年齢の方もいたが、多くの方は役を演じ終わって舞台から降りるように、「平成」という時代の終わりに合わせるように、自らの幕を静かに下ろしたようにさえ見える。
 老兵は死なず、ただ消え去りゆくのみ−−。マッカーサー将軍の退任演説で使われたフレーズとしてよく知られているこの言葉をつい思い出す。

老害と世襲が幅を利かせる

 人はいつかは退く日が来る。退かなければならない日が来る。できることなら、その時期は自分で決めたいものだと思うが、高齢化社会故かいつまでも現役将校を続けたがる人が多い。というか年々増えているように思う。
 自民党が下野していた時、70歳定年制を敷いたがそれに反発して他党に移り立候補し議員を続けている人物もいる。自民党内でも定年制はなし崩し的に不問に付されつつある。それはそうだろう、お隣の国を見習ってか、お隣の国が日本を見習ってか知らないが、総裁任期を延長しているぐらいだから。このまま行けば4選もあり得るかもしれない。そこまで党員はバカではないと思いたいが。

 団塊の世代がまだ40代の頃までは「老害」という言葉が頻繁に語られた。権力を若者に取り戻せ、と。政治の世界はもちろんのこと、企業経営でも。70歳過ぎた老人が政治や経営の実権を握っているのはおかしい。老人から権力を簒奪せよ、と。
 それがいまはどうか。老人は相変わらず権力を握ったままだし、後を継いだ者達も簒奪するどころか禅譲されて喜んでいる始末。これでは変革などできないのは当たり前で、気が付けば政治の世界も企業経営の世界も2世、3世だらけで、いまや完全に世襲制が当たり前になっている。
 こうした現状を憂う親も子もないどころか、70歳過ぎて議員立候補を決意したり、立候補を勧める者までいる始末。それがボケ防止になるなどと言うに至っては世も末だ。

 70歳といえば論語に言う「耳順」を通り越し「従心」と言われる歳である。それがどうだ。70にして心の欲するところに従えども矩をこえず(自分の心のままに行動しても人の道に外れなくなった)どころか、欲望、権力にしがみつき、パワハラ、セクハラ、不正のやりたい放題(は、ちと言い過ぎか)では孔子先生ならずとも、この世はどうなっているのだと嘆き、怒るだろう。

 それにしても、なぜ老人がこれほど幅を利かせるのか。「冗談じゃない。今の世の中、70歳は老人なんかではない。まだ現役世代だ」とお怒りになる向きがあるのはよく理解できる。
 たしかにかつての70歳に比べ、現在の70代は若い。皆、元気いっぱいだ。だからといって若者と同じように振る舞う必要はない。ましてや彼、彼女達の立場や権力、権限を奪い、いつまでも第1線で指揮を執る必要はないだろう。今まで頑張ってきたのだから一歩下がって若者に道を譲り、もう少しゆっくり歩んでいいのではないか。

人生100年時代のカラクリ

 人生100年時代だから、まだまだ働けるし、働かなければ、と言うのもよく分かる。だが、ちょっと考えてみよう。100歳を超えて本当に元気な人がどれだけいるか。今年亡くなった有名人の中に100歳を超えていた人はいないし、人生100年というのは平均寿命100歳という意味ではないことを。それなのに、なぜ「人生100年時代」と言うのか。誰が(どこが)唱えているのか。少し考えれば政府だということに気づくだろう。
 そう、政府におだてられているわけだ。人生100年時代だから、もっと働け、仕事をしろ。企業は定年を延長したり、高齢者を採用して仕事をさせろ。そうすれば人手不足は防げる、と。
 一理ある。60歳あるいは65歳で会社勤めを辞めた途端、会社ロス、仕事ロスになり生きる意欲さえ失う人がいるのも事実だ。彼のうち何%かは引きこもりになっているらしい。そうしたことを防ぐためにも「人生100年時代」だから、と言って働かせるのは一定の効果はあるかもしれない。
 だが、年取ってくると現役世代のように働けないのは事実だ。もう少しゆっくりして、いいじゃないか。そうすればイライラすることも、キレる高齢者と言われることもなくなるだろう。

 そうしたいのに、そうできないのは老後の生活が成り立たないからだ。なぜ、成り立たないのか。なぜ年金だけで生活できないのか。
 すべてが年金受給世代の数の問題とか、人口構成の問題とかにされているが、統計数字上はそうかもしれないが、そうさせたのは政府ではないか。持ち家制度を勧め、消費を奨励し、次から次へと箱物や施設を造り、国の財政を借金漬けにし、そのツケを国民に回し、今度は走り続けよと尻を叩く。これでは働くではなく、働かせられるだ。
 スピードを緩めて、ゆっくり行こう。ゆっくり生きよう。老兵は死なない。ただ1線から消え去るのみだ。平成最後の時にあたり、この言葉をもう一度思い出してみようではないか。

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