老々介護と施設選びの経験から見えたこと(2)
〜必要なのは手抜き介護


必要なのは手抜き

 介護で必要なのは手抜きだと思う。真面目な人ほど親を、伴侶を支えるのは自分しかいない、自分が支えなければと使命感のようなものを感じ、一生懸命に介護しようとするし、また介護する。
 それがよくない。私の経験からも言えるが、介護する側が精神的にどんどん追い詰められていくのだ。傍から見れば、あるいは自分でも、そんなに真剣に考えているわけではない、追い詰められてなんかいないと思っていても、小さな不平とか負担からくる葛藤みたいなもの精神(こころ)の奥底で芽生えるというか、奥底に少しずつ溜まっていく。
 それはあまりにも小さ過ぎて普段は顕在化することがないが、何かの拍子にフッと顕在化し、潜在意識を動かそうとする時がある。例えば吊り橋の上から下を覗いている時、飛び降りようか、というような意識が「湧いてくる」ことがあった。危ない、危ない、と意識を振り払い、再び潜在下に押しとどめたが、その時介護疲れで自殺した人の気持ちが少し分かった。

 衝動的だったり、思い詰めての果てではないのだが、その時の心理を第3者が描写しようとすると、結局そんな言葉でしか説明できないのだろうが、フラッと、まるでよろけるようにそちらに身体が傾いてしまうのだ。真面目に介護に取り組む人ほどそうなりやすい。
 そうならないためには手を抜くことが必要だと思う。すべてを自分で引き受けず人の手(ヘルパー等)を借りて、自分の時間を作り、旅行に行ったり趣味に没頭したり、介護のことを忘れる時間が必要だと思う。
 私の場合は500km余りという福岡との距離と、両地を行き来することが「手抜き(逃亡)」と気分転換になっていた。この行き来はたしかに大変ではあったが、それがなければ私の精神が持たなかったかもしれない。

施設選びは内部の様子を目で確かめて

 歳を取ってくると変化を好まない、受け入れないというのは程度の差はあれ誰しもに見られる傾向だろう。母の場合は特に最初の抵抗が強かった。まず、ヘルパーに来て部屋の掃除や炊事をしてもらうことを拒んだ。それを弟や近所の人の口も借りて時間をかけ、「一人の時に掃除したりするのは大変だろ。週1回でも2回でも来てもらったら楽やで。話し相手になってもらうだけでもいいんだから」と少しずつ説得していった。

 その次はデイケアセンターに週2回通わせることで、その次が施設への入所だったが、これは本人が望んだ。ただ本人がイメージしていたのは病院のような所で、調子が悪ければ数日入り、そこが飽きれば自宅に帰るという自由に出入りできる施設。それも自宅のすぐ近くで。
 そんな都合のいい場所なんかあるわけないが、幸か不幸か自宅前に市の診療所と入所施設があったものだから、診療所の医師にそこに入れて欲しいと何度か頼んだりしていた。医師からは「入りたければ入れてあげますよ。だけどおばあちゃんの話のように出たり入ったりはできないよ」と諭されていたようだが、本人は全然納得していなかった。
 要は老人性ウツと認知症から来る寂しさだ。それが分かったし、ケアマネージャーから「少し認知症も出ているようですから、どこか施設への入所を考えられた方がいいかもですね」と言うアドバイスもあり、入所施設を探し始めたのはいいが、全く予備知識なしで始めたものだから「老人ホーム」に種類があり、それぞれに入所条件があり、好きなところに入れるわけではないということなどが後になって分かった。
                                     (3)に続く


(著作権法に基づき、一切の無断引用・転載を禁止します)

トップページに戻る 栗野的視点INDEXに戻る