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長期政権は企業の存続を危うくする。


 このところダイエー、雪印乳業、日本ハムなど、かつて1時代を築いた企業の凋落振りが目立つ。それぞれに原因は異なるが、共通点もある。その1つに引き際を誤った長期政権の弊害が挙げられる。経営者にとって最も難しいのは引き際かも分からない。

実権を握ったままでは
優秀な人材が育たない

 長期政権の弊害で企業の存続を危うくした人は多いが、その筆頭はダイエーの中内功氏だろう。氏は過去、何度か引退のチャンスがあったが、そのことごとくを自ら潰してきた。それどころか代表取締役会長兼社長と権力を独り占めし、後進に道を譲るどころか閉ざしてきた。その結果が現在である。もし、もっと以前に引退していれば、いまごろは名経営者の名を欲しいままにしていたに違いない。
 九州でも名経営者になり損ねた人は多い。その1人に大分の老舗デパート・トキハの名誉会長、故上妻亨氏がいる。氏は1938年にトキハに入社し、その後、42年に常務取締役に抜擢され、57年から89年まで社長を務めた。その間にトキハを九州1のデパートにするなど数多くの功績を残し、実質的な創業者と目された人物である。

名経営者になり損ねた
トキハの上妻氏

 ところが、社長を退いた後も会長、相談役、名誉会長として、実に45年間もの長きに渡ってトップに君臨し続けたのだ。代表権を握ったまま会長になる人は創業者タイプに多いが、相談役が代表権を持っている企業は数少ないだろう。いわんや代表権を持った名誉会長など耳にしたこともない。これでは後輩が育つどころか、人事が停滞してしまう。結果、3期連続減収減益である。もちろん直接的な原因は福岡・天神1極集中で消費者が福岡に流れたことと、郊外の大型店との競争が激化したことだが、それ以前に社員のモラールが著しく低下していたことが問題だった。
 90歳の高齢にもかかわらず、トキハわさだタウンの建設では陣頭指揮を取り、8月8日に倒れるまで現場回りを欠かさなかったというから、その精神は見習うべきものである。しかし、そのことが周囲にイエスマンしか生まなかった。

後継者を早めに決めた
佐賀銀行・田中前会長

 潔かったのが佐賀銀行の前会長・田中稔氏とメックの相談役・柳(真ん中の字はカタカナのタの字。木偏に外の左側、それに卯の右側)原敏雄氏だ。
 田中氏は大蔵省を退官後、動力炉・核燃料開発事業団理事を務めていた時、当時の頭取、香月義人氏に招かれて佐賀銀行に入行したが、頭取就任後早くから「次期頭取は生え抜きから」と公言していた。口ではそう言いながら、いざ、その段になると前言を翻し、自らの出身母体の大蔵省から引っ張ってくるパターンがほとんどだが、田中氏は公言していた通りに生え抜きの指山氏を次期頭取に据えた。
 筆者が昨年お会いした時、そのことに触れると「いや、あれは皆そのように言うがね。指山君という立派な人物がいたからできたことで、そうでなければ、ぼくだって大蔵省からでもどこからでも優秀な人材を引っ張ってきてたよ」と言われた。先にプロパーありきではないというわけだ。
 だが、大蔵省にしてみれば天下り先が1つなくなるかどうかだから、なにもせず指をくわえて見ていたとは考えにくいが、結局、自らの意志を通してしまった。
 もしかして、院政を敷くつもりだったのではと思い、ちょっと意地悪な質問をしてみた。
 「どこぞの都銀のように、会長になられても人事権だけは手放さない人が多いですが、田中会長も人事権は握られていましたか?」
 「そんなことをしたらなんにもならんだろう。銀行内部のことはすべて頭取に任せ、一切口出しはしてない」
 もちろん代表権など持ってない。

80歳までに完全引退

 もう一つ驚いたのは「80歳になるまでに一切の公職から退く」と言われたことだ。すでに商工会議所の会頭職も退いていたし、残っていたのは佐銀の会長職だけだった。思わず「そのことは指山頭取もご存じなのですか」と筆者が聞き返したのを覚えている。「これはまだ誰にも言ってないから、その前に書いたらいかんよ」と笑いながら言われた。それから約1年後の2002年5月28日に退任。79歳。有言実行の人だった。

60歳でトップ交代が
会社を発展させるコツ

 メック(小郡市)はブラウン管の試験装置の開発で有名な企業だが、最近は液晶や有機ELパネルの検査装置を主に開発している。国内より海外での方が有名かも分からない。
 柳原敏雄氏は同社の創業者である。だが、現在の肩書は相談役。「代表取締役相談役」でも「取締役相談役」でもなく、ただの相談役だ。昨年、社長職を伊藤泰之副社長に譲り、代表取締役会長や取締役会長に就くこともせず、一気に相談役に退いた。
 創業者はなかなかトップを他の人(自分の子供を含め)に譲れない。それだけ会社に愛着があるからだが、逆にそのことが人材の育成を妨げ、ひいては会社を弱くする。それが分かっていてもなかなか経営の1線から退けないのが創業社長だろう。
 「65歳になったから」。昨年、経営トップを交代した理由を柳原氏はこう言う。本当は60歳で交代したかったらしいが、会社を取り巻く環境などのタイミングが合わず5年伸びた。
 なぜ、60歳前後での交代なのかといえば、「もう一度カムバックできる余力がある内に譲るのがいい」からだ。そうすれば、仮に新社長が失敗してもすぐ復帰してサポートできるから、会社を危うくするようなことにはならない、と。
 いずれにしろ経営者にとって最大の問題は引き際をどうするかということのようだ。


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