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銀行の制服に思う。


 10月に西日本銀行と福岡シティ銀行が合併するのを機に女性行員の制服を復活させることになったようだ。
福岡シティ銀行は2002年に制服を廃止して2年余りで復活となったわけだが、この動きを歓迎したい。
そもそもなぜ制服を廃止したのかよく分からないが、ある時、窓口に行くと、私服の女性行員がいたのでビックリしたのを記憶している。
よく見ると、首から「IDカード」と呼ばれる身分証をぶら下げていた。
印象は最悪だった。
理由は信頼性に欠けるからである。

 制服廃止の前に、銀行の窓口に自動番号機が導入されている。
番号機導入の根拠は顧客サービスと効率アップのためだろう。
それまでは窓口に通帳を預け、順番が来ると行員が名前を呼んでいた。
ところが給料日後や月・金曜日などの窓口が混む時は、イライラしながら自分の名前が呼ばれるのを待たなければならないし、行員の方も大きな声を出さなければならないので疲れる。
それが番号機になってからおおよそ自分の順番が分かるので、それまでノンビリ待っていればいい。
あの無機質な機械音声にもやがて慣れた。むしろ今では人間より機械の方がきちんと挨拶する時代である。無機質で抑揚がない声だって無愛想な態度よりはよほど増しというものだ。
自分の順番が来るまでノンビリと新聞か週刊誌でも読みながら待っていればいいのだ。

 ところが、この「ノンビリ待つ」ことが問題だった。
ノンビリするのは何も客の特権ではなく、行員も同じだったのだ。
以前なら目の前にうずたかく積み上げられた皿の数に急かされ、いやが上にも1人当たりの処理スピードを上げていたものだ。
25、26日の金曜日の3時前ともなると、窓口の行員は必死の形相で、額に汗を滲ませて仕事をしていたものだ。
それが、番号機を導入して以後は、こうした形相が消えた。
理由は簡単である。一体、自分は何人の客を待たせているのか分からなくなってしまったのだ。
本来は処理スピードを上げるべく導入したものが、逆に処理スピードを落とす結果になったのだから皮肉としかいいようがない。
それも暇な所ほど処理スピードは落ちている。
待ち客がいなくても「番号札をお取り下さい」と言う。
バカではないか。そうではなく、こちらにどうぞ、だろう。
暇な支店に番号機など導入する必要はないのだが、それを一律に導入するからこんな変な結果になる。

 番号機の導入は曲がりなりにも顧客サービスという側面があったが、制服から私服への変更理由には顧客サービスという視点は微塵もない。
あるのは制服支給費用の削減という内部理由だけだ。
 ところが制服を廃止し、私服に替えてから、さらに全体的な事務処理スピードが落ちただけでなく、行員のモラール(士気)とモラル(道徳観)も落ちた。
もちろん、服装も化粧も微妙に派手になりだした。
モラールの低下はやがて不正に結び付く。

 格好いい制服の効用を説いたのはヒットラーのナチであり、三島由紀夫の楯の会はその教えを忠実に実現した。
もっと現代風に分かりやすく言えば、デザイナーズブランドの着用による効果である。
 それはさておき、制服はそれを着用する者に一体感と区別感をもたらす。
それが組織への帰属意識の高まりとなると同時に、外部に対しては常に「見られている」という意識になる。
この「見られている」という意識が規律を生み、ある種の不正防止に役立っているのである。
銀行のように他者の金を扱う職業の人間には一目で他者と区別する制服はモラールとモラルの維持のために絶対必要だろう。
そしてモラールとモラルがアップすれば、事務処理スピードもアップするはずである。

 ところで、制服といえば製造業の制服、それも女性の制服である。
いくら作業着とはいえ、もう少しデザイン、色に配慮した制服を導入できないものだ
ろうか。
若い女性にとって、およそデザイン性とはほど遠く、くすんだ色の制服は苦痛以外の何者でもないだろう。社用でさえ社外に出る時に恥ずかしくて脱いで行きたくなるような制服では、モラールは上がるどころか逆に下がっていく。
世の経営者達は少しは女心に配慮してもいいのではないか。

04.07.24


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