辺境の反撃が社会を変える。(4)
〜辺境からの反撃が政治を変える


辺境からの反撃が政治を変える

 辺境からの反撃が最もエキサイティングな形で現れたのは今夏の参議院選挙だろう。それまで見聞きしたこともない党名が突然現れ、蓋を開けてみれば当選者を出したばかりか政党要件まで満たしたのだから、これほどエキサイティングなことはない。
 その政党はいまさら言うまでもないだろうが「れいわ新選組」と「NHKから国民を守る党」である。特に「N国」と略される後者は選挙ポスター掲示板に当初、候補者名や党名ポスターすら貼り出されてない所もあり、泡沫候補と見られていた。実のところ「N国」と略記された紙面を初めて目にした時、失礼ながらどこぞの国に新しく出現した反政府組織のことかと思った程だ。

 「れいわ新選組」にしても代表の山本太郎氏の名前こそ知られてはいたものの、党を立ち上げたのが選挙戦に入る3か月前だから、急ごしらえの感は否めなかったし、党名にもどこかふざけた感があった。
 まあ言ってしまえば「山本太郎は当選するが、他はない」という目で見られていたのではないだろうか。私自身、メディアのそうした見方とあまり変わらなかったが、彼が呼び掛けた寄付金額があっという間に1億円を超えた(最終的に4億円を超えたようだ)と報じられてから、彼の選挙活動を注視するようになった。
 党員費などを別にすれば党への寄付金と言えば企業から(個人献金の形をとっていても)の献金が一般的で、個人献金なんて額にすれば大したことはないだろう。ましてや選挙期間中の寄付金ともなると。
 それを「れいわ新選組」は3か月余りの間に4億円を超える額を集めたのだから、他党にとっては脅威だろう。よほど大口の献金者でもいれば別だが、もともと山本太郎氏にそのような「スポンサー」がいた風はないし、選挙後にも「自分が資金的に支えた」と名乗る声も耳にしなかった。
 つまり「れいわ」の寄付金は名もなき個人が、なけなしの金を寄付したことになる。そしてその額を「れいわ」の獲得票数と比べ見れば、投票した人の3分の1が寄付したとしても1人数1000円にとどまる。いままで行き場がなかった「辺境」の票が「れいわ」に流れたと言える。

 山本太郎氏の演説スタイルはオーソドックスなものである。電子ボードを使って数字を視覚的に見せたり、SNSで発信したりということはあるにしても、基本は聴衆に訴えかけ、聴衆から出された疑問、質問に答えるというオーソドックスな集会スタイルである。
 ただ、そうしたスタイルを各候補者、政党が取らなくなり、一方的に喋るだけのスタイルが中心の現在では、逆に新しさを感じるとともに聴衆との間の距離感を縮めている。
 この距離感の近さは集まった聴衆に自分達と同じ目線の高さで考えている政治家と感じさせ、さらに親しみと共感を生んでいく。

 ただ、それだけでは既存政党、例えば2年前の立憲民主党などと変わりはしない。「れいわ」がそれらの政党と大きく異なり、「辺境」の支持を集めたのは目に見える形で「辺境」の者達を候補に立て、実際に彼らを国会に送り込んだことである。
 「れいわ」の代表、山本太郎が当選するためではなく、「辺境」を国会に送り、この国の政治を目に見える形で変えたい。そのために自分の当選順位を下げてでも自分は集票に徹する。
 そんな行動を取れるだろうか。例えば枝野幸男代表にそれができるか。答えはノーだろう。マイノリティーやタレント候補を立てても、それはあくまで票集めのためである。
 といっても誰もそれを批判できないだろう。皆、「常識」に捕らわれているからで、重度障害者が国会議員になっても実際の議員活動ができるのか、と考えてしまうからだ。
 つまるところ、我々は「常識」に捕らわれ、その枠内でしか考え、行動できなくなっていた。どんなに弱者、マイノリティーの味方という顔をしていても、それを打ち破る発想と行動力を持っていないということを山本太郎氏は我々に気づかせたのだ。

世界各地で起きている辺境の反逆

 次は「NHKから国民を守る党」である。同党の議席確保は「NHKをぶっ壊す」という「ワンイッシュ」で当選した「イロモノ」扱いと見る向きが多いが、代表の立花孝志氏は案外、というと失礼かもしれないが、それまでも地方議員経験もあり、やり方はかなり変化球的だが選挙戦ということではよく考えているようだ。
 同党の支持者は「れいわ」とは異なるが、やはり「辺境」の者達であり、アメリカでトランプ氏を支持した層とよく似ている。トランプ氏の支持層が政治的には右派であるように、「N国」の支持層もネット右翼(なぜかNHKを敵視している)が多いと言われている。

 こうした流れは日本だけでなく、むしろ日本では世界に遅れてやってきたと言えるが、「辺境」の反逆がいま世界各地で起きている。アメリカではトランプ氏支持という動きに見られ、フランスではジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)運動という形で表れている。
 いずれも経済的貧困層、下層階級が大多数を占めているのは間違いないが経済闘争をしているわけではない。彼らは既存社会、既存政治、既存秩序から見捨てられた「辺境」であり、「辺境」に光を当て、代弁する政治家が現れたから熱狂的に支持しだしたわけで、「辺境」からの反逆・反撃は世界共通の動きであり、今後さらに広がっていくに違いない。

 歴史を見れば、「辺境」が動く時、時代は大きく変化している。狂気が「辺境」を動かし、「辺境」の狂気が時代を動かす−−。
 言い方を変えれば狂気を持たなければ「辺境」の反乱はコップの中の嵐で終わる。狂気はカオスである。理路整然として、旗幟鮮明で、当初から明確な目的を持って集まり行動するわけではない。矛盾を抱え、混沌としたカオスの塊だが、やがて1つの意思を持ち出す。そうなった時、時代を動かす存在になるだろう。
 「狂気」という点では「れいわ」より「N国」の方が強く、目を離せない存在である。右と左と立ち位置は違うが、ともに「辺境」からの反撃という点では共通しているし、選挙戦という戦いの中で両代表は成長し続けたように見える。
 さて、この国の「辺境」は時代を動かすか、どうか。


ココチモ


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