N の 憂 鬱-12
〜エンプラ佐世保寄港反対闘争


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Nの憂鬱〜エンプラ佐世保寄港反対闘争
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  ◇エンプラ佐世保寄港反対闘争

 地方の大学へも世界や中央の波が遅れながらも伝わってきていた。大学正門脇の立て看板はサイズが一際大きくなり、「ベトナム戦争反対!」「エンプラ 佐世保寄港反対!」から「エンプラ寄港実力阻止!!」へと変わり、マイクを持ちヘルメットを被った学生が「我々は−」と一語一語、語尾を上げて話す独特のアジテーション演説をがなりたてていた。

 それまでも街頭でのビラ配りなどは行っていたが、この頃から該当署名・カンパの呼び掛けを積極的に行いだした。佐世保現地で反対運動をしている活動団体への支援と佐世保に行き反対運動に参加する学友の活動支援が目的である。
 街頭カンパ活動は以前から散発的に行っていたが、ベトナム戦争反対の声が日増しに高まっていく中、米原子力空母が日本に寄港するとなると、対岸の火事ぐらいに捉えていた人達にも日本がベトナム戦争に加担するという当事者意識が芽生え、ベトナム戦争反対を呼び掛ける学生達に「頑張ってね」と声を掛けていく市民がいたり、近寄ってきて自主的に署名カンパをする人達が増えるなど、少し前までとは明らかに社会の空気が変わってきていた。

 カンパ活動に関して言えば、学園闘争が終焉を迎えるまで繰り返し行われたが、収支決算が行われたことも、カンパ額がいくらだったのかも発表されたことはなく、実のところ誰が管理していたのかさえ知らなかったし、今に至るまで知らない。途中で一度仲間に尋ねたことはあるが誰も明確に答えられなかった。
 まさか私的流用はなかったとは思うが、市民からのカンパだけに街頭でカンパ活動中に、厳密な収支報告とまではいかなくても、集まったカンパの使い道ぐらいはビラに書くなりして市民に報告すべきだったのではないかと今でも感じている。

 1968年の年が明けると大学だけでなく社会が騒然とし出した。1月16日午後、学食のTVが博多駅構内でヘルメット姿の学生と、それを取り囲む機動隊の姿を映し出していた。
 その映像を観ながらNは博多駅がどこにあるのはよく分かっていなかった。福岡と博多がイコールで結ばれてないから博多駅が福岡市の国鉄駅だとも知らなかった。元々地理には弱かったが、九州は四国からさらに海を渡った向こうの見知らぬ土地であり、福岡も長崎も九州という一括りでイメージされていた。そんな状態だから博多駅と九州大学、佐世保の位置関係に至っては皆目分かっていなかった。

 福岡市の玄関口である国鉄駅名が「福岡駅」ではなく「博多駅」になった経緯を知ったのは九州に来てしばらく経ち、結婚した後に義父から聞かされたからで、義父達のように博多に住み、博多で過ごした博多っ子にとっては「博多」という言葉には特別の思い入れがあった。「博多」は「福岡」ではなく、両者は厳密に区別されていたのだ。
 市名も「博多市」が当然として「福岡市」を認めず、友人の中には郵便の住所を「福岡市○○」ではなく「博多○○」としか書かなかった人がいたという話を義父から聞いたこともある。
 国鉄の駅名も当初案は福岡駅だったようだが、強固な反対意見が出され「博多駅」と付けられた。
 近年では博多は福岡のことを指す別名と捉えている人が県外に多く見られるが、厳密には博多部と福岡部ははっきり分かれている。その事が分かる一つに祭りがある。夏祭りの「博多祇園山笠」は博多部の祭りであり、博多地区の中で行われ、今でもそうだが、1日だけ「舁(か)き山」が福岡部の方へ出向くようになったのは「山笠」を博多の祭りから福岡市の祭りにしたいという市のPR戦術故だ。
 駅名が博多駅と付けられたウラにはそういう経緯があったわけだが、だからといってNが博多駅がどこにあるか知らなかった言い訳にはならない。

 15日午前10時30分、東京駅を発った急行「西海・雲仙」号に乗り込んだ三派系全学連の学生達は途中の静岡、京都、広島から次々に乗り込んだ学生達を加えて総勢約300人。翌16日午前6時45分、彼らは博多駅に降り立った。
 博多駅ではすでに連絡を受けていた福岡県警の機動隊員800人が列車の到着を待ち受けている。降りてきた学生を取り囲み、所持品検査を強行しようとする。それを拒否する学生達と激しく揉み合い、学生の一部は線路伝いに逃げる。それを機動隊員が追いかけて逮捕する。
 博多駅周辺には一般市民も集まり一帯が騒然とする中、4人が逮捕され、多数の負傷者が出た。
 当時、この様子を現地で目撃していた九大法学部長(当時)の井上正治教授は警察の警備は予防検挙・過剰警備であり、人権侵害に当たるとして福岡法務局に訴えている。

 「九州大学百年史」はその当時のことに触れ、次のように記録している。
「博多駅を出た中核派学生は、駅前で抗議集会を開いたのち(九大)教養部へ向かい、午前9時50分に正門前に到着した。教養部では、全部局の教職員約460人が午前6時30分から警備についていたが、中核派は学生証を手にした九大生を最前列に配置して開門をせまり、門が開けられそうにないとわかると、全員で門を押し開けようとした。このため鉄のかんぬきが押し曲げられ、これを警戒する機動隊との間に一触即発の空気となった。(略)午前10時過ぎ、状況を見守っていた池田教養部長の判断によって正門が開かれた。門外の中核派学生は学内に入り、本館玄関前でデモを行ったのち、学生会館に入った」
 この日から米原子力空母エンタープライズ号が佐世保港を出発した23日まで三派系全学連は九大教養学部を拠点にし、博多ー佐世保間を列車で往復。現地で機動隊と激しくぶつかりながらエンプラ佐世保寄港阻止闘争を展開するのだった。
                             (2)に続く
 


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