N の 憂 鬱-14
〜全闘委、全共闘結成し、大学立法粉砕闘争(2)


◇第1次法文本館バリケード封鎖へ

 運動の初期段階では小さな集団がいくつも立ち上がる乱立状態で、それぞれに主張を掲げて行動するが、運動が拡大していくに従い大きなグループ、それはほとんどの場合3つに分かれていく。1つは変革を志向する新しいグループであり、もう1つは旧来の秩序を守ろうとするグループ、そしてどちらにも属さないグループである。
 3つ目のグループは中間層、無党派層などとも言われることがあるが、核となるべくリーダーも思想も持たないから情勢によって振り子のように振れる。
 それ故に前2つのグループからすれば、軟弱で頼りない存在に見えるが、侮れない層であり、この模様眺めを決め込んでいる層を自グループに引き付けられるかどうかが戦いや運動の趨勢を決める。
 そのための手段は様々で、関ヶ原の戦いで松尾山に布陣した模様眺めの小早川秀秋に業を煮やした徳川家康が内応の約束を果たせねば小早川陣を攻めるぞと脅かす「問い鉄砲」を撃ったような強硬策もあれば、利で誘い込む懐柔策もある。

 余談だが家康の「問い鉄砲」で小早川秀秋軍が西軍に攻め入ったという件(くだり)の話は後世の作り話らしいことが最近の研究で明らかにされつつある。歴史(正史)は勝者によって作られる一例だろう。

 全闘委は日に日に勢いを増し、当初、様子見を決め込んでいた層の中にも全闘委を支持する者達が増えていた。それに危機感を持ったのがつい先日まで自治会を牛耳っていた民青系勢力だ。他学部自治会の執行部はまだ彼らが握っていたとはいえ、学内最大の自治会組織は法文学部自治会・愛誠会であり、そこを反民青系に握られ、学内最大拠点を失ったことは痛手だった。なんとか巻き返しを図り、愛誠会執行部を奪還する機会を狙っていた。

 全闘委が学内で勢いを増し支持層が増えていたが、全闘委と愛誠会は一体ではなく愛誠会の執行部もラジカルではあったが、それは民青系が牛耳っていた旧執行部に比べてラジカルという程度で全闘委ほどではなかった。
 見方を変えれば全闘委の主張や行動は過激であり、そこまでの行動には踏み切れないという層も多く存在した。とりわけ卒業を1年後に控え、長髪を切り就職活動を始めようかという連中は就職活動にマイナスになる行動にまでは踏み切れないと考え、学内の動きから1歩離れた所に身を置いて眺めていた。

 6月20日、愛誠会と教育学部自治会の愛友会が共同主催で学生大会を開催し、大学立法粉砕闘争としてスト権の確立を決議。スト権確立とはストをする権利を確立することで、実際にストを行うこととは別で、例えるなら「伝家の宝刀を抜くぞ、抜くぞ」という言い方みたいなもの。実際に宝刀を抜くわけでもなんでもないから、それが力になるとは思えなく、スト権の確立はマスターベーションみたいなものである。
 それでも教育学部自治会の愛友会がスト権確立を決議したことは画期的だった。一方、愛誠会の方は1歩踏み出し、翌21日から5日間のストに入ることを決議した。
 しかし、全闘委の中にはスト程度は生温いと考える連中もいて、翌22日未明、法文本館1階の窓ガラスを割り、中に侵入しバリケードを構築してバリスト(バリケード封鎖スト)を実行。

 翌朝、騒ぎを聞き付け駆け付けた学生や、民青の活動家から召集を受け急遽集まった学生、何も知らずにいつものように登校してきた学生達や教職員によって学内は騒然とした雰囲気に包まれた。
「ついに我が校でもバリケード封鎖が始まったか」
「昨日の学生大会で決まったのはストの実施で、バリ封鎖はしないという話ではなかったのか」
「そうだ。おかしいではないか。なぜバリ封鎖をしたのだ」
 大声で「バリケード封鎖反対!」を叫ぶ者、遠巻きにして小声で意見を言い合う者、顔をしかめて様子を眺める者。誰もに共通しているのは事態をよく呑み込めずに困惑している顔だった。

 バリケード封鎖といってもテーブルや椅子を乱雑に置いただけのもので、言葉から受ける強固な印象とは違い、撤去に乗り出せば簡単に取っ払える代物だった。占拠学生の方も「バリ封鎖は学友に問題提起をする象徴的なもの」という捉え方だったから、バリケード内に立て籠もるのではなく積極的にバリケードから外に出て、成り行きを取り巻きながら眺めている学生や、スト実施のはずがなぜバリケード封鎖をするんだと詰め寄る学生達と対話を重ねて行った。
 バリから外に出て学友達と対話をしたり、彼らに向けた広報活動をするのは決まって午後の時間で、それがバリ封鎖している学生の日常になって行った。こうした活動のお陰で当初は激しく反対していた学生達の中にも一定の理解を示す者も現れてき、封鎖解除の動きはスト期間中の25日までは起きなかった。
 バリケードから初めて外に出る時、外に出ても大丈夫か、ゲバ棒を持って出た方がいいのではないか、という意見も一部から聞こえはしたが、「対話することに意義があるのだから丸腰で行く必要がある」と委員長の飴野がそうした声を押さえた。ただ全員ヘルメットだけは被ってバリケードから出て行った。もしもの時の防御策だ。

 バリ封鎖中にデモも行われた。法文本館前での対話集会の後に学内デモを行ったり、街頭に出てのデモも行われたが、そうしたデモには外で取り巻いていた学生の一部も参加するなど、対話集会を重ねた効果がそういう所にも見られた。
 そしてデモが終われば、それが街頭デモの後でも、再び何事もなかったようにバリケードの中に戻って行くのだった。
 形ばかりのバリケードとはいえ、1階の玄関ドアは机や椅子を積み上げているから毎回それを退(ど)かせて出入りするのは大変だから、といっても最初の1、2回はそうしていたのだが、基本的にバリケード内外への出入りは校舎2階の窓から縄梯子を垂らして行っていた。
 そうした中でNが2階から落下する事故が起きた。
                                        (次回)へ続く
 


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