N の 憂 鬱-21
〜東大から全国へ、燃え広がった燎原の火(1)


Kurino's Novel-21                    
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Nの憂鬱21〜東大から全国へ、燃え広がった燎原の火
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▽安田講堂攻防戦で幕を開けた69年

 学生も労働者も、誰も彼もが矛盾を感じながら生きていた。特に若者ほど社会に、大人に怒っていた。労働者は歯車の1つでしかない労働に喜びを見いだせず、疎外感を覚え、学生達は身近な学生寮管理の問題や授業料値上げ、授業への出欠を取ることで学生を管理しようとする大学の管理体制、教授、助教授、助手という学内ヒエラルヒー(ドイツ語で、ピラミッド型の階層組織)の存在などを通し、社会の矛盾や政治の問題を自身のこととして考えるようになっていた。
 そこにベトナム戦争反対の世界的な動きが加わり、学園闘争は学園という枠を超え、次第に政治変革を目指すようになっていったのは当然の流れといえる。

 こうした動きは日本だけでなく世界各国で同時多発的に伝播して行った。フランスではパリの5月革命が、中国では紅衛兵を中心とした文化大革命が、ニューヨークではベトナム反戦運動が、そして日本では全共闘運動が。
 共通しているのは従来の価値観、既存の体制に異を唱えた反体制運動であり、そうであるが故に既存勢力は国家権力を総動員し、こうした運動を潰しにかかった。

 反対運動が「大学の運営に関する臨時措置法(通称、大学立法)」反対などの大学内の問題に留まっている間は権力を握っている者たちにそれ程の危機感はなかった。
「どうせ騒いでいるのは学生だけ。就職前には鎮まるさ」
「学生運動は若者の特権みたいなものだ。俺たちも若い頃にはいろいろやったが、社会に出て大人になれば皆変わる」
 既存勢力が情勢を楽観的に見る傾向があるのは世界各国どこでも同じで、その結果情勢を見誤る。ベトナムでもそうだったし、日本の全共闘運動が「自己否定」という言葉で、彼らの言う「大人になる」ことを拒否していることの意味を考えようとはしなかった。

 しかし、学生、労働組合だけでなく、一般市民の間にも拡大していき、新宿駅東口を人の波で埋め尽くした68年10月21日の「国際反戦デー」が転機になり、権力者側は敵意を剥き出しにした。「騒乱罪」の適用である。
 新左翼各セクトは権力側に「騒乱罪」という宝刀を抜かせようとしていた。それと反対の態度を取ったのは相変わらず日共とその下部組織の民青で、彼らはいつでも「整然とした」デモを行い、騒動の中心から少し離れた所で「反対集会」を開いて気勢を挙げ、解散するという、およそ世界の反対運動とかけ離れた行動を取っていた。

 年が明けるとすぐ東大闘争が激化し、全共闘、新左翼各セクトが安田講堂に籠城し、国家権力・機動隊と激しい攻防戦を繰り広げたが、機動隊は佐世保エンプラ阻止闘争から学び、放水車を動員し立て籠もる学生たちに容赦なく放水を浴びせかけた。
 これは視覚的にも効果的だった。その様子をTVの生中継で見ていた国民は放水を銃弾と同じように殺傷力がある武器とは見ず、消防車が放水している程度にしか思わないからだ。
 だが実際には放水車から放水の直撃を受ければ人間は簡単に吹っ飛ぶ程の打撃を受ける。しかも佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争(エンプラ闘争)の時はその水に催涙ガス(米軍がベトナムで使用した枯葉剤と同成分)を混ぜて使用したから、血が流れないというだけであり、放水を浴びた者のダメージは大きかった。
 それでも新左翼各セクトの学生たちは平瀬橋、佐世保橋上でバリケードを築き待ち受ける機動隊に、放水車からの放水や催涙ガス弾を受けながらも突き進み一時は放水車にまで取り付いた。
 だが、重装備の正規軍に徒手空拳、せいぜい鍬や鎌を手にして挑みかかる農民一揆のようなもので、盾で防御し警棒、警杖で殴り倒す機動隊の防御線を突破することは出来なかった。
                             (2)に続く

 #東大闘争 #全共闘 #国際反戦デー
 


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