N の 憂 鬱-23
〜名前をなくした日々の始まり(8)
留置場から拘置所へ身柄移送(中)


 柳井市は四国の対岸で本州とはフェリーで繋がっている。それを利用すれば鉄路で高松ー岡山ー柳井と行くより時間的にははるかに近い。
 救対本部を立ち上げ、代表にもなっている経済専攻4回生の田家原は早速、三津浜港からフェリーに乗船し柳井市に向かった。
 高畑法律事務所は法務局や裁判所から近く、菅原道真が祀られた菅原神社(柳井天満宮)が存在することから天神町と名付けられた町内の一画にある、さほど新しくもない雑居ビルの2階にあった。

 ビルの前に立ち階段を見上げると田家原はホッとして、フェリーを降りてここまで来る道中の緊張が嘘のように消えていたのを感じた。もし、真新しいビルの中に弁護士事務所があり、スーツを着こなした弁護士が出て来たらどうしようと緊張していたのだ。
 だが、雑居ビルの前に立ち上を見上げた瞬間、それまで思い描いていた弁護士像がガラガラッと音を立てて崩れ、代わりに親しみやすそうな弁護士に違いないと勝手に解釈していた。人は見てくれではないということなど、その時の田家原には思い付きもしなかったし、逆に古びた雑居ビルの1室に事務所を構えている弁護士にどこか胡散臭さを感じるということもなく、むしろ庶民的で自分に近い感覚を覚え安心したのだった。

 階段を上がって廊下を左に折れて行くと、突き当りの部屋に「高畑法律事務所」と横書きにされたプレートが貼られていた。
 スチールドアで中の様子を伺い知ることができなかったので多少緊張したが、ドアをノックすると「はーい、どうぞ」という女性の声が中から聞こえた。その声に促されるようにドアを開けて顔を半分程覗かせた目にカウンターの向こうの女性が目に映った。
「あっ、E大の方ですね。どうぞお入りください」
 女性は高畑弁護士からE大の学生が訪ねて来ると知らされていたのだろう、訪問理由を尋ねることもなく中に入るように勧めた。

 室内は大学の教官室を少し広くした程度で、スチール製の書棚には法律関係の本と一緒にファイル類が並べられ、さらに机の上にも裁判資料なのかファイルが乱雑に積み上げられていた。どうやら高畑法律事務所は高畑弁護士と女性事務員の2人だけで他に弁護士はいないように思えた。これでは「手一杯で」と言われたのも当然か、と田家原は納得せざるを得なかったが、ここまで来て手ぶらで帰るわけにはいかなかったし、他に頼める当てもなかったから何としてでも引き受けてもらわなければならない。そう意を固くし弁護士に自分達が置かれている状況の説明を始めた。

「先生、実は私も逮捕・勾留されたんです。その時は救対組織もなかったから接見に来てくれる人間もいなくて随分困りました。私は起訴を免れたからよかったんですが、その時に救対をつくる必要があると思い、釈放された後、救対を立ち上げたんですが、動いているのは私の他に2人。それも常時動けるのは私ともう1人だけなんです。
 ところが佐藤訪米阻止闘争の直前頃からどんどん逮捕されだし、ろくに取り調べもせず起訴されています。完全に不当逮捕ですよ。こうなるとぼく達だけではどうしようもないのであちこちに頼み弁護士を探しました」

「地元で引き受けてくれる弁護士はいないの。裁判になると打ち合わせ等もあるから、できるだけ近くの弁護士がいいんですがね」

「そうなんです。電話の時にも言いましたが、地元の弁護士会に申し込んだんですが、非協力的というか、まったく取り合ってくれないんです」

「ぼくも柳井ですからね。ところで、ぼくのことはどこで知りましたか」

「実はブントの人間が逮捕された時、ブントの組織を通じて東京の弁護士さんを派遣してくれたんですが、この件だけはやるけど、東京から四国まで行くのは大変だし、やはり地元か近くで探してくれと言われました。その弁護士さんが高畑先生の名前を教てくれました」

「えっ、彼がぼくを紹介したの。ぼくの状況を分かって言ったのかな。参ったなー」

「ええ、高畑先生も大変みたいだから引き受けてくれるかどうか分からないが、地元でどうしても見つからなければ事情を話してお願いしてみたらどうだ、と」

「参ったなー。電話でも言いましたが、ぼくも今手一杯なんだよ。彼も酷いなー。ぼくに回したのか。参ったなー」

 高畑弁護士は田家原を前にして何度も「参ったなー」と呟いていたが、仲間の知人弁護士の紹介なら無碍に断るわけにもいかないと諦めたようで最後には「分かった。何とかしよう」と引き受けてくれた。
                                  (後)に続く
 


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