N の 憂 鬱-7
〜白土三平の唯物史観と出合う(1)


Kurino's Novel-7
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Nの憂鬱〜白土三平の唯物史観と出合う
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▽遠くから来て、遠くまで行く

 夏休みが終わった頃には再受験を諦め、次の目標を三年次の編入学に変えていたので少しは大学生活を楽しむ余裕も出て来、サークルの部室にもちょくちょく顔を出していた。
 サークル関係の部室は道路を挟んで大学正門の向かい側、日本赤十字病院と附属中学に挟まれた場所にあり、部室は中学か小学校の平屋教室跡をそのまま再利用したような感じで、運動場に面した側に廊下があり、その反対側に教室(部室)が並んでいるという形だった。
 NとYが入部していた地方研は廊下の突き当りにあったから、部室への行き帰りに他の部室を覗き見ていると、さすがに英語関係のサークル、ESSなどには女性の姿が見られたが、他は総じて男ばかりだった。別の場所にまだ部室があり、多くのサークルはそちらにあったのかもしれないが、当時、他の部の活動や女性に興味はなく、むしろ気になったのは部室が隣り合っていた新聞部の活動と、一つだけ奥まった部屋にある部室で、そこはいつ見てもドアが閉まっていて中を窺い知ることはできず、近寄ってはいけないような雰囲気を醸し出していた。

 怖いもの見たさではないが、気になりだすとますます興味が掻き立てられ、中をそっと覗いてみたくなるもので、前を通る度に廊下とT字形に交わった細い秘密めいた通路を入り、部外者を遮断する強い意志を持って閉じられているようなドアをそっと開けてみたい誘惑にかられ、何度かドアに通じる通路に足を踏み入れかけたことはあるが、もし、この状況を誰かに見られたらどう説明しようかと恐れたり、いきなり後ろから誰かが入ってきて、そのまま部室に連れ込まれ強制的に入部させられるのも嫌だしなどと、別に悪いことをしているわけでもないのに、怯え、おどおど、ビクビクするものだから、結局、ドア近くまでは行ってもそこを開けて中を覗き見ることはなくそそくさと引き返すのだった。

 その日もいつものように横目で見ながら、その部室の前を通り過ぎようとした時「読書会の案内」というA4用紙に書かれた文字が目に入った。そこにはマルクスの「共産党宣言」の読書会を開催するから希望者は奮って参加を、と記されていた。
 「読書会」の何たるかもよく理解せず、読み聞かせ会みたいなものだろうぐらいにしか考えてなかったし、マルクスや「共産党宣言」の名前は地方研でも耳にしていたが、まだ読んだこともなかったので、これは丁度いい機会と考え、取り敢えず参加してみようと考えた。
 ところが読書会開催日と記された日に行っても部室はもぬけの殻。人がいた気配がなく室内は静まり返っていた。それどころか人が出入りしている様子さえ感じられなかった。こちらは意を決して恐る恐るドアを開けたというのに、あの案内は一体何だったのか。まるで狐にでもつままれたような気になったが、しばらく待ってみることにした。

 案内の貼り紙には「社会科学研究会」と書かれていたが、部室のドアには「社研」と表示されており、両者の言葉から受ける印象は少し違っていた。前者からは学問的な響きが感じられたが、後者からは他者を受け付けない毅然とした厳しさ、冷たさのようなものを感じ、とても二つが同じ研究会とは思えなかった。
 こうした違和感はドアを開けた瞬間から感じ、他の部室などとは違う異質な空間、どこか異次元の世界に入り込んだような不思議な感覚に襲われ、軽いめまいさえ覚えるほどだったが、その正体は壁一面に墨で大書された文字で、侵入者に対し言霊と変じ襲いかかって来ていた。

 お前は何者だ! 何の用があってここに来た! ここは魂の集まり、軽い気持ちで来たなら、さっさと去れ!
 黒々とした文字の塊が言霊となり挑みかかり
「我々は遠くから来た。そして遠くまで行くのだ」
 と呟くと、やがて静かに元いた壁に戻って行った。

 「影丸」が最期に残した言葉と、ここで出合うとは−−。
誰もいない部室で、壁に黒々と大書されたいくつもの言葉を見ながら、その中の一つに「忍者武芸帳」の最終巻で「影丸」がテレパシーで伝えた言葉を見つけた時、読書会をすると貼り出しておきながら当日、その時間になっても誰も現れないコイツラは一体何なんだと、それまで不信感と腹立たしさで満ちていた心が少し和らいだ。
                            (2)に続く


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