反省なき犯罪者、金儲け主義の出版社(1)


栗野的視点(No.513)                    2015年6月24日
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反省なき犯罪者、金儲け主義の出版社
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 単純な二元論、二分法は取りたくないが、この頃、人間には2種類しか存在しないのではないだろうかと思い出している。そして、その感は年々強くなっていく。
 元々宇宙は2つの相反する物質から成り立っている。例えば粒子と反粒子、陽子と反陽子、中性子と反中性子、物質と反物質のように。しかも、この相反する物質は同じ性質を持っているから、ややこしい。早い話が外観(?)では区別できないのだ。あたかも善の心を持っている人と悪の心を持っている人が外観からは分からないように。

増殖する悪のエネルギー

 では、物質と反物質が接触すればどうなるのか。融合して新たな物質、例えば新しい性質を持った物質になるのか。そうではない。ものすごいエネルギーを発して爆発する。
 人の場合はどうなるのか。同じように激しいエネルギーが迸(ほとばし)り出るのだろうか。
 このところ相次いでいる無差別殺人、殺人のための殺人という行為を見ていると、そうとしか思えなくなる。少なくともいま地球上には善のエネルギーより悪のエネルギーの方がはるかに満ちているようだ。
 怖いのは悪貨が良貨を駆逐する現象。悪は伝播しやすい。そして感染力も強いようだ。対して悪の伝播を防ぐ愛・善のエネルギーは弱い。しかし、一つひとつは弱くても、力を合わせ身近なところから愛を増やしていかなければならない。一人ひとりがそのための行動を起こせるかどうかにこの星の未来がかかっている。

 私は性善説に与(くみ)していた。生まれつき悪い人間はいない。悪くなるのは取り巻く環境のせいだ、と。だから環境を整備すれば人は善人になる、とまでは言わないが、少なくとも悪への道へ踏み出すことは少なくなるだろう、と。
 しかし、近年、この考えが崩れ出し、もしかすると性善説より性悪説の方が正しいのではないかとさえ思いだした。
 「ジコチュウ(自己中心主義)」が近年どんどん増殖しているとは以前にも書いたが、「ジコチュウ」という言葉では表現できないような犯罪の増加を前にすれば、生まれつき悪の心を持った人も存在するのではないかと思えてくる。

殺人のための殺人事件

 なかでも衝撃を受けたのが名古屋大の女子学生が犯した犯罪。動機は純粋な殺人だ。殺人に純粋も不純もないが、殺人そのものを目的にした稀有な犯罪といえる。とはいえ、これが初めての例ではない。恐らく後世、犯罪のエポックメーキングになったと記されると思われるのが「酒鬼薔薇」を名乗った神戸の連続児童殺傷事件である。犯行が行われたのは1997年。犯罪の残虐性、快楽性、低年齢化(犯行時14歳)はこの犯罪が最初ではないだろうか。そしてこの2つの事件の間に佐世保小6同級生殺害事件、佐世保女子高生殺害事件がある。
 神戸連続児童殺傷事件以前と以後でなにが変わったのか。その一つに動機の有無がある。「日本犯罪史上空前の惨劇」と言われた、昭和13年に起きた「津山30人殺し」(横溝正史の「八つ墓村」のモデル)でさえ、被害者との間に感情の接点があった。それが被害妄想的であったとしても、自らが受けた「被害」への報復という側面が。
 ところが神戸連続児童殺傷事件を含む4事件に共通しているのは被害者との間に憎悪、報復などという犯行に駆り立てる感情の接点がないのが特徴で、たまたま身近にいたが故に「人を殺してみたい」「人を解剖してみたい」という身勝手すぎる、常軌を逸した猟奇的な好奇心を満たす対象にされてしまったのである。

 もう1つ彼、彼女達に共通しているのは自らが起こした犯罪に対する反省が見えないことだ。神戸連続児童殺傷事件の加害男性に至ってはつい最近、「手記」を出版したが、漏れ伝わってくる情報によれば、真摯な反省が語られているということはなかったようだ。
                                               (2)に続く

 


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