崩壊するニッポン(4)
「安全・安心」神話の崩壊(1)
〜崩壊した製造業の信頼


栗野的視点(No.609)                   2018年4月20日
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崩壊するニッポン(4)〜「安全・安心」神話の崩壊
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 いつ頃からこうなったんだろうか−−。かつてこの国は安全で安心して住める国だった。正確に言えば「比較的」という形容詞付きだが。
 組織も人もどちらかと言えば遵法精神に富んでいた。それが今はどうだ、学校も職場も道路や公共の場でさえも安全でなくなったばかりか、政治家の言葉はもとよりとしても、商品カタログに書かれている内容さえも信じられなくなった。

 存在するものを「ない」と言い、データを改竄するのは当たり前。公文書でさえ都合よく改竄するのだから、もう何を信じていいのか分からない。
 歴史は勝者によって書き換えられる、というのは民主主義が確立される以前の時代のことと思っていたが、まさかこの平成の時代に平然と行われていたとは、時代は進歩しているのかそれとも退歩しているのか。

崩壊した製造業の信頼

 我々は一体何を信じればいいのか。愛などという不確かなものと違い、データは根拠がある確かな数字である。それさえもが実は不確かな数字に書き換えられていたとなれば、この世に確かなものは何も存在しなくなる。

 考えてみれば、我々は不確かなものを確かなものと勘違いしていたのかもしれない。パンフレットに書かれた数値は正しいに違いない、注文書通りに作るだろう、大手企業が不正をするはずがない、政治的に中立であるべき官僚が時の権力者におもねって公文書を改竄したり嘘の答弁をするはずがない等々と。

 これらは相互信頼の下に成り立つわけで、信頼は過去の実績の上に培われている。実績は物的な形となって残っており、それの積み重ねである。注文書通りに作られているかどうかは目測とか見た目というような不確かな形ではなく、計測で確かめられる。計測、つまり物的な形として確かめられているわけだ。
 ところがチェックは最初の1回のみで、それにパスすれば後はノーチェックで通る。1回の審査、あるいは納入業者になるまでは厳しい審査をするが、一度パスすれば後は余程のことでもない限り抜き打ち検査などもなく、「信頼関係」という不確かな土台の上に双方が乗り仕事をしている。
 大学入試段階は厳しいが、一度入ってしまえば後は余程のことがない限りエスカレーター式に進んで卒業できる日本の大学のことでも、近年急成長している新興国で起きていることでもない。これはれっきとした工業先進国、資本主義先進国の日本で21世紀の今、行われている、起きていることである。

 上記の部分のみを見聞きすれば、まさかこの日本で、今行われていることと理解できる人は数少ないのではないか。
 「メード・イン・ジャパン」は「信頼」の証だと思われていた。その裏返しとしてアジア諸国産を低品質とバカにする風潮もあった。ところが、あっという間に、本当にここ数年でスマートフォンは一部の人々によってバカにされていた「中華製」に取って代わられた。国内市場はもちろん世界市場も。こうした現状を目にしてもまだ「中華製」をバカにできるだろうか。

 その間に日本企業が行ってきたことは何か。根拠がない優位性と不正というのはあながち言い過ぎとは言えないだろう。三菱マテリアルは直接的には子会社の不正とはいえ、20年近く前からデータの改竄を行っていたし、神戸製鋼グループ、東レ子会社、日産、スバルの無資格者による検査など、日本を代表する大手企業が次々に不正を行っていたわけである。
 スズキの無資格者による完成車検査は約30年前から行われていたというから、もうこうなると「メード・イン・ジャパン」の信頼は地に落ちた、というより幻想だったことがよく分かる。

 それにしてもなぜ、一時は信頼のブランドだった「メード・イン・ジャパン」は地に落ちたのか。それはスズキの無資格者による完成車検査が約30年前から、三菱マテリアル子会社のデータ改竄が約20年前から行われてきたことから見える。バブル経済が崩壊し産業界でコスト意識が高まりだした頃と軌を一にしているではないか。
 コスト優先主義は年々強まり、企業は非生産部門を次々に縮小していった。メンテナンスサービス、アフターサービスは縮小・廃止もしくは本体から分離。人件費までもコストと考えだし、正社員を減らし非正規社員に替え、人材教育等への投資も大幅にカット。
 その結果が無資格者の完成車検査であり、データの改竄に繋がっていく。「その程度の数値は誤差の範囲内、許容範囲だ」ということになり、今度はその数値が正規数値のように代々受け継がれていく。
 こうした傾向は今回発覚した企業だけに止まるものではないだろう。多かれ少なかれ同じようなことは他社でも行われていたのではないか。

 問題はコスト優先主義だが、その背景にあるのは大量生産である。同一製品を大量に作るものだから、作られたモノは購入先を求めて市場をさまようことになる。最初は生産地の近くだった市場はどんどん拡大していき、やがて自国を飛び出し他国にまで売りに行く。

 その行き着く先に待っているのは貿易戦争だ。どこの国だって自国の産業を守りたいのは当たり前で、なんとか他国の製品が大量に流れ込むのを避けるために関税をかける。
 売り込む方は関税をかけられるとその分価格が高くなり、相手国で売れなくなるから関税の撤廃を望む。これは双方同じだから後は政治的な駆け引きの問題になる。

 今日、世界が抱えている問題の根底には大量生産による作り過ぎがあるということは冷静に考えれば誰もが分かることだ。しかし、もはや誰も、どこも作り過ぎをやめようとはしない。OPECでさえ減量ができないのだから。
 結局、行き着くところまで行かなければ止まらないのだろう。行き着くところとは、それはあまりにも悲惨だから口にしたくはない。しかし、もういい加減に人類は気付くべきだろう。我々の未来について。
                             (2)に続く


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