ココチモ

 


「暑い8月」を報道しないTVの情報番組


 この頃TVの情報が面白くない−−。面白くない理由はいくつかあるが、一つには、どこの局も同じ内容のものばかりを繰り返し放映していることだ。
 例えば8月上旬は朝から夜まで日本ボクシング連盟の山根明会長に関することばかりを、どこの局でもこれでもかという感じで放映している。チャンネルを変えても他局も皆同じ。他にニュースはないのかと怒りたくなる。ここまでくれば視聴者に選択権はない。まるで一つのものを選ばされ(押し付けられ)ているのと同じで、ジョージ・オーウェルが「1984年」で描いたテレスクリーンそのものである。
 「1984年」が出版されたのが1949年。その時オーウェルは35年後の世界を予言した(描いた)わけだが、それからさらに35年後が現在。オーウェルが描いた近未来の世界がいま現実となって我々の目の前に現れている。このことに不気味さを感じるのは私だけだろうか。

 8月6日−−。この日が何の日で、何が起きたのかは昭和の人間なら誰もが知っている。しかし平成の世になり、特にこの数年、この日は日本人の記憶から消されようとしている。
 「ビッグ・ブラザー」ー「偉大な兄弟」と訳されているが、この語には「独裁者」という意味もあるーに忖度し、もう今は「忖度」するのが当たり前、意向を先取りして自己規制するのが当たり前の時代で、時代の先頭を行くマスメディアがそれに先駆けて進むのはさも当然だと考えているからなのかどうか、彼らはこぞって「8月6日」の出来事を無視し、なかったことにしようとしているように思える。
 その代りに「熱闘 甲子園」や日本ボクシング連盟の「山根明問題」を毎日、毎日繰り返し報道することで我々の関心をそちらに向けようとしているようだ。

 「昼間のTVはバラエティ番組で情報番組ではない」と言われるかもしれない。たしかにそうかもしれない。そんなことにいちいち目くじら立てなくてもとか、「栗野がまた変なことを言っている」と言われそうだが、変化は常に小さなところから起こるものだ。、その最初の小さな変化にいかに早く気づき、是正するか。そうすれば大きな嘘に騙されなくて済む。

 「ゆでガエル」の話を知らない人はいないだろう。その話を聞くと、皆その場で大笑いする。だが、それでオシマイ。皆、例え話、それも自分とは無関係な例え話だと感じているから、笑ってオシマイにできる。少しずつ湯が熱せられているというのに、そのことに気づいていないのか、それともそれは大した事ではないと考えているのか。
 いつの間にやら「森友・加計学園問題」は終わったことにされてしまいそうだ。人々の関心は「日大問題」「不正入試問題」に移らされている。8月6日ですらTVが取り上げるのはそれらが中心だ。
 そして気がついた時には「ダブルシンク(二重思考)」にはまり、「2+2は5であると同時に4でも3でもある」と心から信ずるようにさせられる。ウィンストン・スミスがそうなったように。

 8月6日、9日に起きたことは人々の記憶からどんどん薄れていっている。辛うじて残っているのはヒロシマとナガサキの人達だけかも分からない。
 実際、8月6日を原爆投下の日と知らない若者は増えているし、被爆地でも「平和学習」の後退が言われ、若者の「被爆体験話離れ」も指摘されている。
 「いつまでも戦争の話ではないだろう」「原爆の話は怖い、気持ち悪いから聞きたくない」「また被爆の話か、もう聞き飽きた」と言いたくなる気持ちも分かる。自分の若い頃と比べても、そう変わりはしない。口では戦争反対と言っても、ヒロシマもナガサキもオキナワのこともよく知らなかった。どれも遠い所で起きた出来事のように感じ、正面から向き合い、知ろうとしなかった。
 だから今の若者が「暑い8月」のことを知らなくても、あまり関心がなくても仕方がないところがある。その時が来れば、ある年齢になれば大いに関心を持つかもしれないし、もっと知りたいと思うかもしれない。できることなら、若い内に「その時」が来て欲しいと望むけれど。

 歴史は風化するーーそして風化は残虐、残酷な記憶から先に進む。だからといって歴史を風化させていいはずがない。
 その点、活字メディアの取り組みは熱心だ。問題は若者の文字離れ、長文読み込み力の低下である。デジタルニュースの細切れ情報に慣れて、長文を読む根気をなくしているのは今に始まったことではないが、スマートフォンの普及・常用でその傾向はますます強まり、読まれるのは平易な内容のもの中心で、暗く重いテーマのものは敬遠される傾向にある。
 かくして「暑い8月」の記憶は文字中心のメディアが真剣に取り組んではいるものの、彼らの努力が報われているとは言えないのが活字メディアの悩みだろう。

 代わって果たされるべきなのがTVを始めとした映像メディアだが、彼らは「ビッグ・ブラザー」に忖度し、ニュース番組でさえも「暑い8月」はなかったかの如き態度に終始し、自らジャーナリズムの旗を下ろしている。
 その中で辛うじて「暑い8月」を特集し続けているのがNHK(NHKスペシャルとBS1)だけというのが情けない。NHKは毎年、夏が来ると社内の良心が作動するらしく、最後の魂だけは売らないとギリギリ踏ん張り続けているようだ。
 一方、情けないのはテレビ朝日で、爪を研ぐことも牙を剥くこともなく、尻尾を振って擦り寄り、餌をねだる体たらく。久米宏氏の頃の「ニュースステーション」が懐かしい。

 さて映像マスメディアが「暑い8月」を忘却の彼方に置き去ろうとしている中で、どうすれば歴史を風化させず、次世代にきちんと伝えられるのか。
 隠れた歴史が表に姿を現すには50年、70年の年月を要するというのは他国の例でも知られている。言い換えれば、歴史を掘り起こす作業には長い年月を要するということであり、諦めずに掘り起こし続けなければならないが、掘り起こし、記録として残す作業は文字メディアが使命を持ち継続的に行っている。

 だが、記録は残せても、歴史の風化は止められない。倉庫の奥深くに仕舞い込む(記録する)だけではダメで、そこにそれがあるということに人々が気づき、倉庫の扉を開けて中に入り、記録を見、古い記憶を新しい記憶に変えていかなければならない。

 その入り口の役目を映像マスメディアが果たすべきだったが、それがほとんど望めない現在、歴史の記憶は途絶えるのではないかと危惧していた。ところが、若者が従来とは異なる新しい手法で歴史に向き合う入り口づくりを始めたのは意外であり、少々驚きでもあった。
 そんな軟派な方法で、と頭の硬い私などはつい言いたくなるが、入り口への「きっかけづくり」と考えれば、それもありだろう。多様な入り口があっていいのだから。
 その方法というのはアニメによる表現である。考えればアニメも映像表現の一つである。「この世界の片隅に」(こうの史代原作)や「夕凪の街 桜の国」(こうの史代原作、制作NHK広島放送局、8月4日中国地方先行放送)も原作はアニメ(漫画)だし、さらに遡れば「はだしのゲン」もあった。
 「はだしのゲン」が長い期間読みつがれてきたのは漫画という手法と無縁ではないだろう。
 文字メディアは「内容」を重視してきたし、それはそれで大事なことだが、次の世代への引き継ぎを考えれば今後は「入り口」を広げることを考えていく必要がありそうだ。そして、その方法を若者達が提示してくれつつあるのは明るい材料だろう。


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