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青空を眺めながら「露天風呂」で読書


栗野的視点(No.805)                   2023年8月20日
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青空を眺めながら「露天風呂」で読書
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 4年前の夏は福岡で過ごしていた。今年ほど暑い夏ではなかったが、それでも日中はエアコンを入れ、外出を控える閉じ籠もり生活を続けた結果、エアコンで冷やされた筋肉、特に腰の筋肉が強張り、脊柱管狭窄が悪化し、寝返りさえうてない状態が1か月近く続き、ほとほと参った。
 その時の酷い経験から夏は岡山県北東部の田舎に移動し、エアコンで体を冷やさない生活を送るようにしている。田舎は1軒家なので、パソコンの前を離れて庭に出てちょっと草取りをしたりとちょこちょこ体を動かすことができるのがよく、庭に出るのも室内を移動するのもバリアフリーには程遠い段差だらけで、これが案外体にいいようで田舎にいる間は腰痛で苦しむことがほぼない。

 それでも昨年、今年のように猛暑が続くと、さすがに日中はエアコンなしでは過ごせないが、腰の辺りに強張りを感じると入浴(半身浴)で筋肉をほぐしている。
 楽しみは窓を開け青空を見ながら入る風呂で、さながら露天風呂に入っている気分。時間は早朝だったり日中だったりと好きな時間に本を1冊持って入っている。
 夏はそれほどでもないが冬は湯気で本が湿気るから表紙カバーはボロボロになるし、夜は入浴中に居眠りをし本を濡らしたことが何度かある。それ故に湯船に持ち込む本は読後処分してもいいような本にしているが、読み進むうちに史料価値を見出し捨てられず、再び本棚に戻した本が昭和史関係で何冊かある。

 面白かったのは永井路子の「わが千年の男たち」。「歴史をさわがせた女たち」の男性版で、入浴中の読み物としては最適。入浴効果と相まってリラックスできた。澤地久枝の「妻たちの二・二六事件」は視点に感心し、とても真似できないというのが正直な気持ち。男性の場合、二・二六事件の遺族への取材を考えても両親や兄弟になるだろう。残された妻へのインタビューは思い付かない、思い付いてもそこをメーンに持ってこようとはしなかっただろう。第一、未亡人たちが取材に応じてくれたかどうか。

 入浴しながら読むのは軽く読めるものの方が適している、と思う。だが、実際に持ち込み読んでいるのは評論だとか伝記、歴史書、ドキュメンタリーの類。
 元々が本棚整理、読後廃棄処分が目的で始めた入浴読書だが昭和史関係のドキュメンタリーなどのように資料的価値を見出し、再び本棚に戻したものも多いから、当初の目的通りには廃棄が進まない。

 「資料的価値」といっても誰にとっての資料的価値かと問われれば考えてしまう。所蔵していても他に読む人もいないし、世間で「終活」を言われる自分の年齢を考えれば「資料的価値」がこの先生かされることはほぼないだろう。ならば思い切って廃棄処分、と思うが、根が貧乏性故それができない。

 直近で読み終えたのが司馬遼太郎の「歴史の中の日本」。若い頃、同氏の本はよく読んだが再読する気は起らない。理由は、彼の小説には弱者や庶民が主人公になったものがないからで、基本的に弱者の視点がない。その点が藤沢周平などと違うところで、今振り返って見れば司馬遼はあまり好きになれない。

 入浴中に読むものは短編集の方がいいが、唯一の例外は森村誠一の「青春の源流」で全4冊という長編小説だった。氏がこれを書いていた時期は「悪魔の飽食」を書いていた時期と重なる。もう一度「悪魔の飽食」のようなものを書いて欲しいと思っていたが、今夏、鬼籍に入られたのは残念だ。

 「青春の源流」を読んでいてふと気付いたが氏の作品には性描写がない。若い男女が出会う場面で描写されていても不思議ではないが、描写されてないのだ。
 逆にやたら性描写が多いのが半村良で、初期の作品「石の血脈」では嫌になるくらい多い。多いだけでなく書き方が妙にねちっこく嫌になった。
 もし氏の作品の中で「石の血脈」を早い段階で読んでいたら、以後、半村良は読まなかったと思うが、幸いなことに最後に読んだ作品がこれだった。私生活でも酒と女に溺れたらしいが、小説とはいえ経験したこともないことを頭の中だけで創りだすことはできず、少なからず私生活の体験が作品に反映されるものだ。時代小説や市井の人を描いた作品にはいいものが沢山あるのに。

 森村誠一が「青春の源流」と「悪魔の飽食」という似通ったテーマのものをほぼ同時期に書いたように、いかに売れっ子作家といえどもテーマがまったく異なるものを同時にはなかなか書けない。
 ところがジョージ秋山はそれを漫画でやってのけた。60年代末から70年代初めにかけて彼は「アシュラー」「銭ゲバ」を少年雑誌に連載したが、その一方で対極にあるような人物像を「どんどん和尚」「浮浪雲」で描いていた。
 まるで別人。でなければ二重人格者か、と思われるほど対極にあるテーマであり、しかも長年に渡り連載したのだからスゴイ。

 「アシュラー」「銭ゲバ」は長年に渡って描き続けることはできないだろう。もし「浮浪雲」のように長年連載したとすれば、最後には作者自身の精神が破綻しかねない。そうならないために対極にある人物像を描くことで精神のバランスを取っていたのかもしれない。彼もすでに鬼籍に入っている。
 そんなことをぼんやりと考えながら、今日も青空を眺めて湯に浸かっている。


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