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「コロナ」が変えた社会(8)〜「戦争を知らない大人たち」が戦争したがる(2)
〜「自宅療養」ではなく「自宅放置」

ことさらに「野戦病院」と言いたがる

 臨時医療施設と言えばいいものを、臨時医療施設と言った方が理解しやすいのに、せいぜい映画かTVでしか見たこともないはずなのに「野戦病院」と敢えて言いたがるのはなぜなのか。

 特にテレビ朝日の社員コメンテーター等がメディアでしきりに「野戦病院」を設置しろと煽る。なかには戒厳令という言葉まで飛び出したこともある。
 なぜメディアは、メディアに登場する「戦争を知らない大人たち」は戦争用語を使いたがるのか。
 それが何を意味し、何に繋がるのか理解して喋っているのか。もし理解していないのならメディアで発言するのは止めた方がいい。
 「ウイルスとの戦い」だって? その一方で「with ウイルス」を唱える矛盾。言葉は概念を持っているし、概念が重要だ。

 こうした言葉の使い方を苦々しく思っている人もいるはずで、そうした声に耳を傾け、「今後、野戦病院という言葉は使いません」と言った若い知事がいたのは救いだった。大阪府の吉村知事である。
 彼はこの言葉の持つ響きを指摘され、即座に言葉の使い方を改め、そのことを発表した。

「自宅療養」ではなく「自宅放置」

 メディアの無思慮な言葉の使い方はほかにもある。「自宅療養」とは一体何か。入院が必要なのに入院できず、やむなく自宅で入院待ちをしている状態を言うならせいぜい「自宅待機」だろう。それを退院した患者が社会復帰までの一時期を自宅でリハビリしながら過ごしたり、入院するまでもなく、自宅で安静にしていたり、薬を服用していれば快復する状態を指す言葉、「自宅療養」と言い換える誤魔化し。

 古館伊知郎氏がTVのリモート出演で「私は『自宅療養』という言葉は使いたくない。『自宅療養』ではなく『自宅放置』だと思っている」と指摘していたが、その通りだ。
 そこまで指摘されても番組司会のアナウンサーは、その後も「自宅療養」と喋り続けていたが。

 「自宅療養」と「自宅放置」は言葉が違うだけではない。言葉が持つ概念が違い、「自宅療養」という言葉からは、自宅にいるけど何らかの医療的な処置は受けられているのだろうと受け止めてしまう。そこに他者の救いの手は伸びない。
 一方、「自宅放置」と聞けば、見守りにしろ、食料の差し入れにしろ、なんらかの救いの手を伸ばそうという他者の手が伸びようとする。それで救われることもあるだろう。

 このように言葉は重要なのだ。野戦病院と言うのか臨時医療施設と呼ぶのか。自宅療養なのか自宅放置なのか。
 自宅療養という言葉を使えば行政や医療機関は責任が薄れそうに受け取るのではないか。しかし、自宅放置と言われれば、行政は責任を感じるだろうし、医療機関や近隣の人々もなにかできることはないだろうかと感じ、救いの手を差し伸べたいという気になる人もいるはず。

 「野戦病院」にしろ「自宅療養」にしろ他局でも使っているから、メディアが使っているから、コメンテーターが使っているからというような理由で使うのはあまりにも思慮がなさすぎる思考停止状態だ。
 今この国が陥っているのは思考停止状態という恐ろしい病ではないだろうか。


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