「息子に殺される〜」。病室で母が叫んだ。


 「息子に殺される〜」。病室で眠っていた母が突然、大声でそう叫んだ。それも一度ではなく二度、三度と叫び、そう叫ぶ自分の声で興奮し、手が着けられなくなった。母を落ち着かせるため、やむなく私は一時病室を離れた。それが母と交わした最後の言葉になった。

 入所していたグループホームの主治医(グループホームはその医療法人の運営)から何度目かの呼び出しがあった時、ある程度の覚悟はしていた。「うちでは最期の看取りまではできない。提携病院があるからいよいよとなるとそちらを紹介はします」とは途中で医師から言われていたから、ついにその時が来たか、病院に移れという話だろうと覚悟しながら医師と面談した。
 「先生、ズバリお聞きします。余命はどれくらいですか」
「これだけは何とも申し上げようがありませんが、腎機能が落ち、排尿もありませんから早ければ数日、あるいは1週間かも分かりません。何とも分からないのですがこの数日、排尿がないし、血液検査の数値を見ると、数日後でもおかしくはありません」
「ということは今日でも入院した方がいいと」
「市医師会病院が対応してくれると言ってくれたので、10時頃には入院すると連絡しています」

 えっ、そんなに急を要する話なのかと驚くとともに、一昨日までごく普通に話もできていたし、ホームで普通に生活していたのにと多少訝りながらも、医師は数値を見ながら言っているから外見からはそう見えなくても危険な状態なのだろうと考え、医師の勧めに従い、即病院に連れて行くことにした。
 もちろん母はそんな事情は知らないし、バートナーと一緒に顔を見せると「あらっ、二人揃って来てくれたんか」と喜んでいた。
 無邪気に喜ぶ母を騙して入院させるのは心が痛んだが「ちょっとこれから検査に行こうかね」と明るく言い、車に乗せた。いつもは同じ敷地内の医院で診てもらっているから車で行くことに疑問を感じたのだろう、どこへ行くのか、なぜ行くのかなどと尋ねるが、適当に誤魔化しながら連れて行った。

 私一人だとそうも行かなかったと思うが、パートナーがいてくれたお陰で母は大した疑問も感じず、あるいは疑問を感じながらも何となく従ってくれていたのだろう。
 それでも病室に入り、ベッドに移され、今まで見たことがない顔の人達が寄ってたかって色んなことをしだすと異常に気付いたようです「お前は私を騙したんか」と怒り出した。
 母を騙したのはこれで二度目だ。一度目は弟が入院中の病院まで連れて行った時。今、会わせておかなければ、もう二度と弟の顔を見ることはできないと考えたから、岡山県で入所していた施設から連れ出し、神戸の病院まで連れて行った。
「見舞いに行きたいと言っていたやろ。これから弟の見舞いに行こうか」
「えっ、これから行くんか?」
「そうや、これから行こ。会いたいと言うとったがな。彼女も来てくれてるから3人で神戸まで行こ」
 そう言って連れ出した、これが今生の別れになるとは伝えず。そして今回だ。もう二度と家に戻ることはおろか、グループホームにさえ帰れないのに詳しいことは何も説明せず慌ただしく連れて行った。

 入院直後の検査で「1週間、早ければ数日後」と医師から言われ、3日後には「延命治療は希望されないということでしたから、もう点滴もやめましょう。胸水が溜まっていき、ご本人も苦しむだけですから」と言われ、即日、繋がれていた管が全部外された。「後できることは看取りだけ」になり、看護師からも「会わせておきたい身内の人がいれば今の内に」と告げられた。

 ところが、である。持っても1週間のはずが1週間、2週間、3週間と容態は変わらず推移したのだから、人の命というか生命力は分からないものだ。その間、毎日病室に通い続けたが、もしかするとと思わないこともなかつた。
 その頃になると「看取りしかない」と言った医師も看護師も口をつぐんだばかりか、長期戦になりそうだと考えたらしく、老人病院への転院さえ勧めてきた。一体とうなっているのだ。診立て違いかと思うほど母の容態は安定していたが、それでも少しずつ起きている時間が短くなり、私はベッドの側で母の手を握ったまま本を読んだり、音楽を流したり、眠ったままの母の耳元で昔話をしたりして過ごす時間が長くなっていた。

 そんな時である。突然、大声を上げて叫んだのは。「息子に殺される〜」。廊下に人がいたら、介護に疲れた息子が母親の首でも締めているのではないかと勘違いしただろう。
 勘違いはたしかにあった。施設に入所している頃から「お父さんが迎えに来てくれん。向こうにいい人でもできとるんじゃろうか」と言っていたから、眠ったままの母を見ながら、いよいよ旅立ちの準備をしているのかもしれない、別れは今日、明日かもと思い、耳元で静かに話しかけていた。
 「お袋、よう頑張ったな。もう、いいよ。親父のところに行っても」
 この言葉を聞いた直後に叫び声を上げたのだから、こちらの方が驚いた。眠っていると思ったが眠ってはいなかった。耳は聞こえていたのだ。
 早く逝けと言ったわけでも、そう思ったわけでもないし、それまでだってそんなことを口にしたこともない。それなのに。
 むしろ私が期待したのは「迷惑をかけたな。ありがとう」という言葉で、最期にはそんなことを言ってくれるのではないかとさえ思っていた。それが正反対の言葉が口から出ようとは、それこそ想像だにしていなかった。
 正直、これには悲しさと同時に腹立たしさを覚えた。

 耳は最後まで聞こえているーー。そう言われることも知っていた。だが、まさか、というのが、この時の正直な思いだった。
 その後、食事をさせようと、いつものように軟らかいものをスプーンで口に持って行ったが、母の興奮は収まらず、茶碗を壁に投げ付けようとさえした。興奮を鎮めるためパートナーに促されて私が病室を出ていった後、どこにそんな力が残っていたのかと思われるほどの激しさで茶碗を壁に投げ付けたらしい。

 これが母と交わした最後の言葉になった。翌日から眠ったままで3日後の夕刻、私が見守っている前で、まるで映画のように、突然、呼吸が止まり旅立った。
 親父、妻、弟、母と最期を看取ってきたが、最も手がかかったのが母だった。それだけに最期の言葉が「殺される〜」はあまりにも情けなかった。




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