栗野的視点(No.869) 2025年8月21日
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袖振り合うも他生の縁〜気になっていた福岡の友人
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友人、知人との付き合い方は人それぞれだろうが、私は「袖振り合うも他生の縁」という思いで付き合っている。そう思っているのはこちらだけかもしれないが。
最近は「年賀状じまい」ブームで年に一度の便りもなくなり、メールも来なくなったりすると、どうされているんだろうかと気になる。
特にここ数年は全国各地で災害が多発しているし、友人、知人の多くも高齢者の域に達しているから消息が気になる。
要らぬお世話、と言われればその通りなのだが、消息を知るためにも折に触れ季節の挨拶メールを一斉同報通信で送っている。
その結果、旧交を温め直すことができたりするのは嬉しいが、中には訃報に接することもある。
H君からメールが来ない
その一人にH氏がいる。彼と知り合ったのはもう20年以上前になる。私が主宰している会に出席したり食事会にも参加してくれていたが、2年前の5月に誘った時に不参加の連絡が来た。
理由は痔の悪化で長時間座ることができない、というものだった。手術をする予定だから治ったら参加しますと言っていたし、2人でビールを飲みたいですね、と言ってもいたので、昨年5月、食事会への誘いメールを送ったところビックリする返信が届いた。
「報告するかどうか迷っていたのですが、痔だと思っていたのは、大腸がんが拡がって肛門の粘膜の一部を押し出していることが判明」「リンパ節と肝臓、肺にも遠隔転移している、いわゆるステージ4の状態と判明」したという。
私は身内を2人、膵臓ガンで亡くしているので、この言葉の意味を即座に理解し言葉を失った。
彼はまだ60代半ば。
「頑張れ」なんて言葉は空々しく響くから言えず、彼の心をおもんばかり気持ちに寄り添うことぐらいしか出来ないが、それからも折に触れメールを送り、状況をそっと尋ねていた。
その都度返信が来たが「人工肛門を着ける手術をしました」「仕事は変わりなくしています」「ビールは500ml1缶ぐらい飲めるようになりました」と前向き、案外明るそうな内容で状況を知らせてくれていた。
ビール500mlだって、350mlの間違いではないのかとメールを見直してみたが、間違いなく500mlと書かれていた。ガン患者がそんなに飲んで大丈夫か、350mlにしておけよと思わず独り言ちたほどだ。
11月にメールをした時は思いの外元気な内容の返信が届き、当初秘かに心配していた年は越せそうに思え一人安堵。
メールには私のことを「闘病仲間と勝手に思っていますから」ともあった。
翌年(今年)の正月、いつも彼から届く年賀状が来なかったので少し心配したが、2日に年賀メールが届き、その内容にホッと安堵すると同時に12月は年賀状を作成できる状態ではなかったのだろうと心配した。
4月2日、私のメルマガに「湯郷温泉ひな祭りの写真も、ああいった飾り付けを始めて見たので、現地に行ったような新鮮な気分になりました」と彼からコメントが寄せられた。
そして「私の方は、昨年末〜年明け頃にかけての原因不明の倦怠感が徐々に薄れ、現在は無理のない範囲で取材・執筆活動を続けております」ともあった。
その内容に一喜するも、やはり12月は症状がよくなかったのだと一憂。
本当は「そこまでして仕事をするな、残りの時間はできるだけ家族と過ごすようにしろ」と言いたかったが、言えなかった。
奥さんから突然届いたメール
5月下旬メルマガでボルボの電気自動車のことを書いたが、彼からのコメントはなかった。
自動車のことを書けば必ずコメントを寄せてくれていた彼。その彼が何も言って来ないことに症状を案じた。
6月一杯待ったが、やはりメールが来ない。
どうしたのだ。容体が急変し入院したのではないだろうか、と気になり、7月早々に状況確認のメールを出した。
それでも音沙汰がない。
あんなにきちんとした男が何も言って来ないとは、かなり状態が悪いのではないだろうか。
気になりながらも7月下旬、岡山県北東部の実家に一人帰省した。
そして8月3日の夜中、トイレに起きたついでにスマホを見ると1通のメールが届いていた。
差出人名に彼の姓「H」という文字が見えた。
やっと彼からメールが来たかと、まだ半眠りの眼(まなこ)と頭でメールを見ると
「【ご報告】Hの訃報につきまして」というタイトルが目に入り驚いた。
「4月27日未明に急逝いたしました。4月下旬に容体が急変し、あっという間のお別れとなってしまいました」
メールの差出人は彼の奥さんからだった。
連絡が遅くなったことを詫びる文面から始まったメールだったが、恐らく身辺を整理していて、私からのメールに今気付き、急ぎ知らせてくれたのだろう。
メールを読みながら落涙を禁じ得ず、それから2時間程眠れなかった。
「もう一度、飲もう」
そう約束していたのに
次の日奥さんに電話し、昨年12月以降の状態等を知らされたが、早過ぎる死を思うと残念でならなかった。
急逝したD工業のS会長
もう一人はD工業(福岡県新宮町)の創業者・会長のS氏である。
しばらくお会いしていないので、最近はどうされているかなと気になり8月初め、激暑見舞いメールを送ったが宛先アドレス見当たらずで返ってきた。
送り先は会社ドメインである。それで届かないのはおかしいと感じ、会社に電話しS氏に繋いでもらおうとした。
電話口の先の若い女性は一瞬沈黙した後、困ったような口振りで「どちら様ですか」と聞き返してきた。
「栗野です。以前何度か会社にお邪魔していますし、S会長はよくご存じのはずです」
と怪しい人物ではないとそれとなく伝えた。
返ってきたのは「Sは昨年12月に亡くなりました」という思いがけない言葉。
「えっ、12月のいつ? 何で亡くなられたの。しばらくお会いしていなかったけど、病気で?」
電話を受けた窓口の若い女性は詳しいことをよく知らない風で誰か事情を知っている古参の社員が近くにいないか見回しているような感じが受け取れたが誰もいなかったようなので、それ以上聞くのはやめ電話を切った。
会社のHPに載っているだろうと考えたからだ。
だが、会社のHPには「当社の会長であり創業者であるSが2024年12月27日享年83歳にて永眠いたしました」と記されていただけだ。
新社長の顔写真が載っていたが、随分若かった。
次いで社歴の欄を見たが、S氏が会長に就任した年月日、新社長が就任した年月日の記載はなく、まるで別の会社を見ているような感じを受けた。
子供はいないと聞いていたし、現社長の苗字も全く違っていたから血縁でもなさそうだ。
M&Aで会社を売却したか、と考えたが、会社の沿革の中にもそれらしい記述はなかったから会社売却でもなさそうだし、まるで狐につままれたような気がした。
最後に会ったのは6年前の忘年会にお誘いした時。その時はお元気で、とても患って亡くなられるような感じには見えなかった。
それにしても交流があった人がいなくなるのは寂しい。
だから折に触れ消息伺いのメールを出しているが、この夏も返事がなくアドレス帳から削除せざるを得ない人が他にも数人。
やるせなく、寂しい気持ちで盆を迎えた。
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