デル株式会社

 


 質より量が力を持つ情報の怖さ(2)


 たしかに映画やドラマはフィクションである。しかし、昔の映画はまだ時代にある程度忠実にあろうとしていた。それが近年の映画やドラマはフィクションであるにもかかわらずトゥルーの顔をして作る。中にはご丁寧に歴史的な事実を文字で表記したりするものだから、観ている側はフィクションと史実に基づくドラマの境目が分からず、フィクションのドラマを史実か史実に近いと勘違いしてしまう。
 怖いのは制作側が意図するとしないとに関係なく、情報の受け手側がそれをトゥルーだと信じてしまうことだ。異形の武蔵を中村錦之助や役所広司が演じることで武蔵を美男子だと勘違いし、「お通」のように武蔵を慕う女性がいてもおかしくないと思い込んでしまう。

 いや、いや、そのどこが問題なのかと思う人もいるだろう。司馬遼太郎が小説とはいえ弱者を描かず、幕末から明治の、のし上がろうとした者達の物語を書いたように吉川英治は日本が日中戦争をはじめ海外に侵略拡大する時代に「宮本武蔵」を書いた。
 そこに「お通」はフィクションとしてではなく、現実存在として必要だったのだ。故郷に内地に恋人を残し外地に出て戦う男達に軍部が必要としたのは残してきた恋人を断ち切り、ひたすら剣の道を追い求める求道者武蔵像である。
 本人は意図してか知らずか、大衆作家吉川英治はそうした意図を感じ取り、その意向に沿う人物像を創り上げたわけで、時代が吉川武蔵を受け入れる要素は十二分にあった。

 情報は発信側だけでなく受け手側にもリテラシーが求められる。ナチスとヒットラー、日本軍部はそこをうまく利用した。だが、それは過去の歴史上の出来事だけではなく、今ロシアで同じことをプーチンが行い、ロシア国民はプーチンが発する情報を信じている。
 ロシア外にいれば、そんなバカなことを何故信じるのかと疑問に感じるかもしれないが、ロシア国内にいればプーチンサイドに立つ情報量が圧倒的に多い。つまり人は情報の質ではなく量が多い方を信じるということである。

 時代考証が力をなくせば人は映画やドラマで見たままのことをトゥルーとして信じるしかなくなる。
 時代考証はその最後の砦でもある。そこが崩れれば人々はフィクションをトゥルーと信じてしまう。
 それぐらい時代考証は重要なのだが、そこを担う彼、彼女達にその認識が薄いことが気になる。


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