吉備NC能力開発センター・片山さんに送る挽歌(2)


 それから1分もしただろうか、ケータイに「片山Sです」と電話がかかってきた。
「4日の日に病室でお会いし、その時はお元気な様子でしたからびっくりしました」
「そうなんですよ、私も前日、病室に行き父と話をしたばかりで、その時しっかり話もできていたから、おっしゃる通り急逝で、私どもも驚いたんですよ」
 どうやら血栓が心臓の弁に詰まったようで医師を含め誰も予想できなかったようだ。

「葬儀は家族だけで行いました。会社からは社長が参列したいと申し出がありましたが、それもお断りした次第です」
 そう言われ、これから私が自宅にお邪魔したいと言うと断られるだろうかと思いつつ「もし、お邪魔でなければ、これからご自宅までお伺いしたいのですが」と尋ねると「どうぞお越しください」と言われた。
「私は今、岡山県に帰省しているがいつもは福岡に居るし、今日は平服でお邪魔することになるが構わないか」と断りを入れ、取るものも取り敢えず、兎にも角にも伺うのが先決と吉備中央町まで車を走らせた。

 自宅にお邪魔すると、ご子息3人と奥さんがいらっしゃったが、急な訪問を嫌がる素振りもなく、むしろ「遠いところをありがとうございます」とねぎらいの言葉さえ口にされ、大いに恐縮した。

 後で考えると、ご子息たちは私のことを少し知っていたのではないかと思った。
次男の方が「この間、病室に来ていただいたんでしょ。あの日の午後、私が病室に行くと父が言っていました」と言われたし、三男の方が「父が残していたものを整理していたら栗野さんが書かれたものでしょ、”栗野的視点”と題されたものが綴じてありました」と持って来て見せてくれたりで、互いに初対面であるにもかかわらず話している内に、旧知の仲というのは言い過ぎだが、片山さん家族とは以前から会っていたような親しみを感じていた。少なくとも私の方は。

 ご自宅で20分余りも話していただろうか、最後にお墓の場所を教えて欲しいとお願いしたところ、長男のS氏が案内してくれた。
 「父は無宗派でしたから戒名もありません」
そう言われて墓石を見れば「和」の一文字が彫られた四角い墓石で、裏にはすでに片山雅博の生年月日が彫られていた。
 生前に墓は作られていたみたいで、「後は父の没年月日を入れるだけです」とS氏。

 嗚呼、片山さん。あなたはいい息子さん達に恵まれましたよ。息子さん達は3人とも関東在住と言われていましたが、もし、県内在住だったら、今後、何度かお会いして片山さんが吉備NC能力開発センターを起ち上げた前後の話などを聞きたかった。

 墓前で手を合わせ、そう語りかけた。
オーナー社長ではないが、吉備NC能力開発センターの初代社長を引き受け、障碍者雇用に尽力し、ここまでしてきたあなたの功績は大きいはず。
 それなのに会社のHPのどこにも「片山雅博」の名が載っていない。葬儀は極々身内の家族だけで執り行うからと言われても、私なら「せめてお別れの挨拶だけでも」「線香だけあげさせてください。すぐお暇しますから」と葬儀当日が無理でも、その数日後に駆け付ける。
 そう思った。
 況や現社長は片山さんが指名した社員で、彼が部長の時に片山さんから「彼を後継者にする予定です」と紹介されてもいたし、その通りに実行された。
 それなのにHPのどこにも彼の名前が載ってないとは・・・。

 私は古い人間かもしれない。いや古い人間だし、あちこちで知らず知らずの内に不義理もしてきているだろう。
 でもというべきか、だからというべきか、袖振り合うも他生の縁と思っているし、創業者の精神、業績は後世に語り継がなければならない、そうすべきだと考えている。
 幸い私にはペンがある。
片山さん、できればあなたのことを書いて残したいーー。

 墓前に手を合わせ、「これでお別れです」と、あなたの笑顔に挨拶しながら、帰路に就いた。
                                              


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