NHKスペシャルが見せた制作現場の意地(1)


「戦後70年」が問いかけたもの

 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言うが、歴史が常に全ての事実を告げているとは限らない。いつの時代も歴史は勝者が作り、敗者、弱者の歴史は闇に隠され、正史に載ることはない。
 だが、そんな隠された歴史の真実も時が過ぎれば少しずつ顔を出してくる。ただ、そのためには30年、50年、どうかすれば70年から100年の時が必要になるが。
 なぜ、それほどの時間を要するのか。一つには公文書の閲覧制限が原則解除されるのが30年後からで、それまでは外交文書の公開などは国益の名の下に禁止されているからだ。とはいえ30年たてばすべてが明らかにされるかと言えばそうではない。様々な理由の下に、実質公開禁止処置が続けられたり、仮に公開されても大部分が黒塗りだったりする。

 公文書以外ではどうかといえば、こちらはもっと長い年数を要するようだ。それは個々人の体験であったり、それらの総和であることが多く、地道な発掘作業が必要になる。しかし、人は自らの体験が悲惨であればあるほど、衝撃が大きければ大きいほど、それを心の奥底にしまい込んだまま、思い出したり他人に話そうとはしない。顕在化させないことで心の平穏を保とうとするからだ。
 歴史を形作る(多面的に検証し、事実を明らかにしていく)ためには、核心近くにいた人物の証言が必要なのだが、口をつぐったまま逝った人も多い。
 それでも氷山の氷が少しずつ溶けだすように、時代を経るに従い少しずつ語りだす人が現れてくるのも事実だ。それらの証言は何十周年という節目の時に行われることが多い。節目が一つのきっかけとなり、重い口を開かせる後押しをするということもあるし、外界の変化が固く閉ざした口を開かせる決意を促すこともあるだろう。

 戦後70年の今年がそういうきっかけになったのは間違いない。歴史の発掘を続ける側には節目の年だからと力が入るし、戦争体験者の側には自らの年齢を考え合わせ、事実を明らかにする最後の機会になるかもと考えたであろうことは想像に難くない。
 それでも事実を明らかにすることは勇気がいる。それはきれいごとだけでは済まない部分、自らの痛みを伴う部分もあるだろうし、心の奥底深くに閉じ込めていた悲惨な状況を思い出すことでPTSD(心的外傷後ストレス障害)にならないとも限らない。
 そうしたリスクを冒してでも体験を明かしていくのはよほどのことだろう。それにもまして口を開かざるを得なかったのは時代の変化を感じ取ったからではないのか。
 時代の変化−−、彼らがかつて経験した時代と同じ雰囲気、軍靴の音が遠くから聞こえてくるような過去の記憶が呼び覚まされ、いま自らの体験を次の世代に伝えておかなければと決心したに違いない。

 報道機関の側はある種の覚悟を迫られていた。政権側の露骨な締め付けに、報道の自由を守るのか、それとも保身に走り政権の言いなりになり「大本営発表」報道をする「御用報道機関」になるのか。その選択を迫られていた。
 後者は一度通った道だ。政権に対する監視役というジャーナリズムの本質を忘れ、保身に走ったばかりか積極的に加担したとの反省を忘れたわけではないだろう。
 もし、今報道機関に身を置く若い世代達が、あれは自分たちに関係ないことと考え、権力への批判をやめるなら、それはジャーナリズムでもなんでもなく単なる商業主義でしかない。ジャーナリズムの看板を下ろし、代わりに「権力の犬」と看板をすげ替えた方がいい。
 この1年余り、報道に対する締め付けはあまりにもあからさまであり、かつてないほど強まっていた。なかでもビビり上がったのがNHKだ。それはそうだろう、放送権を取り上げるとまで恫喝されたのだから。それでも制作現場には報道の自由を守ろうとする気概はあったと思われ、それは終戦記念日前後のNHKスペシャルに表れていた。

                                             (2)に続く


(著作権法に基づき、一切の無断引用・転載を禁止します)

トップページに戻る 栗野的視点INDEXに戻る