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日本人はマイナス面を見ようとしない〜信長と秀吉の残虐さ(2)
兵糧攻めで三木城を干殺しに


兵糧攻めで三木城を干殺しに

 秀吉は信長に比べれば幾分残虐さが薄いように思われているかもしれない。実際、秀吉自身が「三木の干殺(ひごろ)し、鳥取の渇殺(かつえごろ)し、太刀も刀もいらず」と誇っている。
 これに備中高松城の水攻めを加えて三大城攻めと呼ばれるが、共通しているのは兵糧攻めだ。
 兵糧攻めは秀吉が嘯(うそぶ)くように「太刀も刀もいらず」だが、それは攻め手側に立った主張であり、戦いの犠牲者数は別だ。むしろ死亡者・犠牲者数は武器を持って戦う武力戦よりはるかに多く、戦後に残された光景は凄惨だ。
 しかも秀吉は兵糧攻めを仕掛けている間、兵糧を断たれた相手が餓死する様を自陣で酒席を設け眺め楽しんでいる風もあったから、信長が浅井父子と朝倉義景の頭蓋骨を薄濃(はくだみ)にし、正月の宴席で酒を酌み交わした行為とさほど変わらないというか、秀吉は信長のそうした行為を真似ていたのかもしれない。
 ついでに付け加えると上記の三大城攻めは信長の命による中国攻めの時に採った戦術であることも一応頭に入れておく必要があるだろう。

 秀吉の兵糧攻めがいかに残酷なものであるか。城兵のみならず婦女子、城下の農民まで残らず死に追いやった大量虐殺であることを考えれば分かるだろう。
 兵糧が尽き果てた三木城内では糠、馬や牛のエサの「まぐさ」、さらには馬を殺して、その肉まで食って耐えたが「後には人の肉を刺して食う事、限りなし」(播磨別所記)という悲惨な状態にまで追い込まれた。
 天正8年1月10日、別所友之の守る鷹ノ尾の砦が落とされると城兵300人は諸肌脱ぎで戦ったが、それは鎧を着る体力も残ってなかったからと言われている。
 事ここに至っては、いや本来ならもう少し前に三木城主・別所長治は秀吉軍に降伏すべきだったが、長治、友之兄弟と叔父の別所賀相3人の死と引き換えに残された兵達の助命を願い、それが受け入れられると切腹して果てた。その直前、それぞれの妻女も自害している。
                                       (3)に続く


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