日本人はマイナス面を見ようとしない〜信長と秀吉の残虐さ(4)
上月城、三条河原の妻妾・婦女子大虐殺


上月城、三条河原の妻妾、婦女子大虐殺

 秀吉の三大城攻めはいずれも信長の命による中国攻めの時の兵糧攻めだが、中国地方の反信長勢力との戦いで、歴史にもあまり取り上げられることはないが激戦だったのが西播磨の上月(こうづき)城の攻防戦だ。
 播磨と美作国の国境に位置する上月城は現在の兵庫県佐用町。近くに三日月城、利神(りかん)城などがあり、いずれも守りに強い堅固な山城。
 秀吉軍が上月城を攻めたのは天正5年11月の終わりから12月初め。翌天正6年3月終わりから三木城攻略に臨んでいるから、その前年で信長方にとっては重要な戦いといえる。

 激しい攻防線の末、上月城は落城するが、この時の秀吉の仕打ちが残酷だった。多くの場合、落城(開城)の際は城主、あるいは複数の重臣の首と引き換えに残された将兵の助命を願う、あるいは城主等の首を条件に講和するが、秀吉はこの時、上月城の申し出を拒否し「悉刎首(ことごとく首を刎ねた)」(下村玄蕃允に送った秀吉の書状)。
 しかも婦女子200人余りを美作の国境付近で見せしめのために子供は串刺しにし、女は磔にして並べたというから、戦国の世の習いとは言い難く、非戦闘員に対する虐殺行為である。

 子供を串刺しで想起するのは浅井長政の嫡男、当時10歳の万福丸を探し出させて磔、串刺しにした信長の行為。
 秀吉は信長に倣ったのか、それとも元から残虐性を持ち合わせていたのか、その辺りは定かではないが、天下人となった後、関白職を甥の秀次に譲り、自らは太閤となったが、秀頼が生まれた途端、自分の子を後継者にしたいという思いが強くなる。
 そうなると邪魔に思い始めるのが甥の関白秀次。仮に秀次に自分の跡を継がせてもショートリリーフにしたい。あるいはショートリリーフもなしに秀頼をいきなり後継の地位に据えたい、と考え始める。

 この辺りは現代でもよく見かける構図で、娘婿を後継者として社内外に発表したり、社長職を譲りはしたものの娘婿は他人。やはり息子を社長にしたいと考え、様々な理由をつけて追い出してしまうのと実によく似ている。

 だが秀吉は自分の甥に謀反の罪を被せ自害させたばかりか秀次の妻妾30人余りを京都・三条河原に引き出し、秀次の首を前に罪人同様に次々に斬り殺させ、穴に30余人を投げ込み埋めたのだ。その中には彼女たちの幼子もいたが、まるで犬猫のように首根っこを掴まれ槍で二刺して殺されている。

 秀次は巷間「殺生関白」と呼ばれたが、この所業を見る限り秀次、秀吉どちらが殺生か。
 降伏を願い出たにもかかわらず、それを受け入れず悉く惨殺した上、残された婦女子200人余りを見せしめのため磔刑にし晒したり、秀次の妻妾やその子らをまるで犬猫か罪人のように斬殺した行為は現代なら戦争犯罪人として裁かれる。
 時代が違うという人がいるかもしれないが、仮に100歩譲っても無抵抗の婦女子虐殺が許されていいはずはない。

 「二度と過ちを繰り返しません」。毎年8月になると同じ言葉を呪文のように繰り返す政府首脳。彼らは田中角栄の次の言葉を想起することがあるだろうか。

 「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らぬ世代が政治の中枢になった時、とても危ない」

 田中角栄が予言した通りに今なりつつある。「戦争を知らぬ世代」には戦争の肌感覚がない。あるのはゲーム感覚。どうせ自らが前線に赴くことはないと思っているから。だから「ゲームとして」戦争をしてみたがる。

 では、それを防ぐ手立てはあるのか。それは負の側面を直視し、語り続けることでの追体験である。
 日本とドイツの違いはマイナス面を見るか、見ようとしないかで、日本人は過去を美化したがって、負の側面を見ないことだ。
 歴史をきちんと反省しないから、次に生かすことができない。過ぎたことをまあまあで済ますから同じ過ちを繰り返すことになる。
 信長にしろ秀吉にしろ、彼らの負の側面、彼らが行った残虐な行為を直視し、語り継ぐことが戦争の悲惨さ、残虐さを伝え、戦争を起こさないことに繋がる。


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