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過去の経験から学ばない日本の被災者救援(2)
理屈より速やかな行動こそが


理屈より速やかな行動こそが

 電気も電話も通じないのにどうして情報を伝えるのか、と言われそうだが、電気も電波もない時代の情報伝達の手段は人の手と口だった。
 こう言うと道路は寸断され、車も通れないのにどうして人が行けるのだ、と言われそうだが、車は通れなくても徒歩なら行ける。

 個人的なことだが15年近く前、兵庫県・岡山県の県境一帯が集中豪雨で被災した時、神戸にいる弟が「お袋は無事らしい。今、実家方面に向かって走っているけど、道路はどこも通行止めになっている」と電話で連絡があった。
 それを聞いた私は即座に弟の行動を止めた。危険だからやめろ。数日待て。途中でお前まで巻き込まれて事故に遭う二次被害の危険性がある、と。
 だが、弟は私の引き留めを無視して車で現地に向かった。
「大丈夫。俺は地理に詳しいから裏道、抜け道を知っているから」
「分かった。だけど、危険と思えば、その場で引き返すこと」

 安全策から言えば私が言う方で、弟の行動は蛮勇と言われそうだし、事実、私はそう言って弟の行動を止めた。
 しかし、結果的に弟が実家に辿り着いたお陰で、現地情報がもたらされ、また数日後に従兄弟も大阪から駆け付けてくれた。身内ボランティアであり、その協力にどれだけ勇気づけられ助けられたか。
 1週間ぐらい後、状況を知った九州の友人が非常食を送ってくれたのも嬉しかった。こうした行為がどれほど被災者の支えになることか。

 支援の仕方には色々ある。募金もその一つだが、やはり嬉しいのは直接的支援だろう。見捨てられていない、という気にさせることが重要で、そういう意味ではいち早いボランティアの現地入りこそが最も効果的だ。

 ところが、このところの災害でボランティアのいち早い現地入りを止める動きがあるのは残念だ。
 たしかに混乱している現地に外部の人間が入るのはさらに現場を混乱させることになる、という言い方も分かるが、実際に被災した人からすれば、できるだけ早く来て欲しいというのが本音だろう。
 状況が落ち着いた頃に救援や援助の手が差し出されても嬉しさ半分。「今頃来ても」という気持ちになる。
                         (3)に続く

#能登半島地震救援


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