人は見た目に騙される(1)
小保方、佐村河内騒動の背景から学ぶもの


 人は見た目に騙される−−。そのことを象徴するような騒動が相次いだ。1つは「全聾の作曲家」を偽った佐村河内守氏騒動であり、もう1つは「STAP細胞」騒動である。音楽と科学という一見なんら関係がなさそうな両者だが、よく見ると今回の騒動の裏にはいくつもの共通点が見えてくる。

論文不正の背景にあるものは

 2つの騒動を影響力、深刻度で比べれば圧倒的に「STAP細胞」騒動の方が大きいが、両者に共通しているのは現代社会を象徴しているという点である。20年前なら両騒動はかなり様相が異なっていたに違いない。少なくとも一部関係者の間で話題になったぐらいだろうが、あいにく今はインターネット時代、あっという間に広がり、衆人の知るところとなってしまった。
 しかも根掘り葉掘り、直接騒動と関係ないプライベートなことまで暴かれ、「水に落ちた犬は打て」とばかりに、つい先程まで持ち上げていた手のひらを返して今度は洗いざらい暴露し、徹底的にマイナス材料として報道するものだからターゲットになった相手はひとたまりもない。社会的死に追いやるこのようなやり方こそが問題だと思うが、理化学研究所の対応もひどい。
 もともとマスメディアを集めてセンセーショナルな発表の仕方をし、小保方氏を必要以上に持ち上げてきたのは理研ではないか。野依理事長はじめ彼らはいまでこそ被害者みたいに振る舞っているが、「論文の体をなしてない」とか「未熟な研究者」を見抜けなかった自らの不明を恥じるべきではないのか。彼らが会見で口汚く小保方氏を罵れば罵るほど、それが良識ある科学者の態度かと思ってしまうのは私だけだろうか。

 さて、「STAP細胞」騒動である。どうやらこの問題の根は深そうだが、問題にしたいのは他者論文(文章)の「コピペ(copy & paste)」に対して「やってはいけないことという認識がなかった」と小保方氏が答えていることだ。
 これには当初、腰を抜かさんばかりに驚いたが、しばらくしてさもありなんと多少合点した。多少というのは背景を考えた時、「科学者の倫理観」云々という以前の問題で、「ありうるかも」と思ったからだ。
 1つは彼女の30歳という年齢である。この年齢というか30代以下の人達は物心付いた時からデジタル世代である。何か調べたい時は紙の辞書より電子辞書、電子辞書よりネットで検索して調べるのが当たり前になっている。
 ネット検索で見つけた文章を書き写すなんてバカなことはしない。コピペで貼り付けておしまいだ。それがデジタル時代のよさなんだから。皆そう考えているに違いない。だから、この世代前後以下の人達には、コピペは「やってはいけないことという認識がなかった」のはある意味当然かもしれない。当然、それが著作権侵害に当たるという認識もないだろう。

 私達の時代はインターネットはおろかパソコンもなかったから、図書館や本屋で参考文献を見つけ、それを読み込み、必要な箇所は書き写すしかなかった。これは非常に非効率な作業である。しかし、物事は非効率な中に効率があるもので、書き写す作業を続ける過程で、自分の思考になっていく。あるいは思考が練られていくのだ。
 私などは頭も要領も悪く、おまけに遅読ときたものだから、いろんなところで随分回り道をしてきた。少し後の世代は書き写す代わりにコピーしていたようだが、まだコピー機も普及してなく、またコピー代そのものが非常に高い時代だったから、図書館で専門書を借り、英文タイプライターを奮発して(オリベッティ製は高くて手が出ず、国産のブラザー製を)買い、洋書1冊丸写ししたものだ。英語の勉強を兼ねてのつもりだったが、英語力の上達には全くならなかった。だが、ほぼブラインドタッチに近い状態で打てるようになっていたことが、後にパソコンの文字入力に役に立った。

 要はデジタル世代にとってコピペは普通に行われていることであり、小保方氏だけの問題ではないだろう。となると今後も同じような問題はあらゆるところで出てくる。それをどう防いでいくのかは難しい問題だ。

 もう1点。彼女が「やってはいけないことという認識がなかった」と言ったことの背景には以前から、周囲で、皆が、やっていたから、その事自体に不正という認識がなかったということも考えられる。とすれば、問題は深刻だ。大学で普通にコピペが行われているということなのだから。
                                              (2)に続く


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