祭神は4神? 3神?
さて、「四御神」の由来は神社境内に行って分かった。
大神神社に祭神として祀られているのは大物主神(おおものぬしのかみ)、三穂津姫神(みほつひめのかみ)、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)、大穴牟遅神(おおなむちのかみ)の4神である。
つまり4神が祀られている地から、神社一帯を「四御神」と読んだ。ただ当初は「しのごしん」という呼び方だったという記述も見られるから「しのごしん」が訛(なま)って「しのごぜ」と変わっていったのだろう。
4神を祀っていることを4座をお祀りとも言うから「しのごしん」→「しのござ」→「しのごぜ」と変わっていったのかも分からない。
ところで大物主は大国主(おおくにぬし)の別名。大国主命の別名はいくつもあるからややこしいし、この神の出自は諸説ありはっきりしないからよけいややこしい。
因みに大穴牟遅神は大物主神と同一神で、大穴牟遅が後に大物主に名前を変えている。となると大神神社には大物主と大穴牟遅という同一神を祀っていることになるから、厳密には4神ではなく3神ではないかと思うが。

(拝殿に飾られていた絵馬。描かれているのは左から少名毘古那神、大穴牟遅神、三穂津姫神、絵馬には大三輪神と書かれているが、大物主神の別名)
さらに言うなら三穂津姫神は大物主神の后(妻・正室)であり、少名毘古那神は大物主神と義兄弟の間柄。海の向こうからやって来たことになっているから渡来神と考えられる。
こう見ていくと大神神社は大物主神の家族を祀っていることになるが、このような例は珍しい。
「国譲り」神話ではなく「国盗り」物語
余談だが、大国主命といえば大概の人が出雲の国譲り物語を思い浮かべるのではないだろうか。
「国譲り」といえばソフトに聞こえるが、実際は大和朝廷と出雲地方の豪族との戦いであり、攻略してきた大和政権の責任者が大国主命であり、出雲側にも交戦組と和睦組で意見が割れ、当初は交戦組(兄)の意見が通り戦ったものの敗れ、その後、弟が白旗を掲げて和睦交渉をし、国(出雲地方)を譲り渡した(占領された)ことを民話として語り継いだのが「因幡の白兎」に代表される「国譲り」の話である。
「国譲り」とは勝者側の都合がいい言い分であり、「国盗り」と言う方が正しいだろう。
現代に置き換えるとロシアによるウクライナの領土盗りがこれ。
中央政権と地方政権の戦いの物語は全国各地に残されているが、「歴史は勝者の歴史」と言われるように勝者側の立場で書かれている。
対して敗者側から見た歴史は正史としては残らないから「民話」や伝承という形で伝えられていっている。
岡山には桃太郎伝説の元になった話があり、温羅(うら)と呼ばれる鬼がいて、吉備地方で嫌われていた。それを退治しに来たのが桃太郎のモデルになった吉備津彦。
民話にして珍しく(?)征服者寄りの話になっている。よほど吉備地方の豪族が悪政を敷いていたのか、それとも吉備地方はこの頃から中央政権寄りだったのか。
ただ温羅は岡山の夏祭り「うらじゃ」のタイトルに使われ残されているから、まあいいか。
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