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温故多く知新少なしか、温故なく知新ばかりか


「温故」にウェイトが移ってきた

  「まだまだ丸くはなりたくない。角がいい」。昔(70年代)流れたサントリー角瓶のCMである。語りはデザイナーの三宅一生氏。記憶されている方も多いのではないだろうか。
 この頃のサントリーのコピーは秀逸だった。なかでも好きだったのがこのコピー。
 70年代という時代背景もあっただろうが、社会に出て丸くなっていく連中が増えていく中で、物分かりのいい大人になってどうすると息巻き、反骨精神を内に抱えながらも、時として既存秩序や「大人の常識」に飲み込まれそうになった時、「まだまだ丸くはなりたくない。角がいい」と嘯く。そんなCMに自らを重ねながらいままできた。
 だが、自認した「怒れる中年」も最近は衰える体力に逆らえず、怒る前に息切れしてしまう始末。そんな様子も傍目には丸くなったと映るようで、内心痛し恥ずかし。

 まあ、そんなこんなで最近は過去を懐かしむ「余裕」ができ、「余裕」ができると今度は友人知人の消息が気になりだす。そんな折、メールが届かなくなった友人の公認会計士がいた。宛先アドレスが存在しない、という返信メールが送られてきたのだ。
 インターネットの場合、メールが途中で行方不明になって届かなくなったり、先方のサーバーの不都合で「アドレス不在」として返ってくることはままある。そのためアドレス不在メールが一度ぐらい返ってきてもアドレス帳から削除しないようにしている。それでも期間をおいて3度も届かないと、本当にそのアドレスは使われていないのだろうと判断し、当方のアドレス帳から削除するようにしている。
 ただ、先方が経営者で会社のドメイン名の場合は判断に困る。考えられる理由は2つしかないからだ。1つは「@(アットマーク)」の前を変更した場合。もう1つは会社そのものが存在しなくなった場合だ。
 いまや電子メールアドレスは会社の住所や電話番号と同じようなものだから、アドレスを変更することはあまり考えられないが、それでも何らかの理由、多くは迷惑メール対策等でアドレスを変更し、変更後のアドレスはごく身近な相手にしか通知しないこともあるだろう。
 実は私も迷惑メールの多さに辟易し、アドレスの変更を考えたことがある。しかし、変更通知を多方面に出す煩わしさを考えると、結局そのままにした。

袖振り合うも「多少」の縁と思い

 ところで心配なのが後者の場合。先日も某県の某社社長宛のメールが届かず返ってきた。妙だなと思いながらインターネットで社名検索すると、自社未公開株の売買話で資金を集め問題にされ、会社もすでになくなっていた。
 私が取材したのは10数年前。構造はシンプルだが、シンプル故にメンテナンスも比較的簡単だし、何より着想が面白かった。取材記事をHPでも紹介していたし、純朴そうな人柄で、とても未公開株詐欺まがいなことをするような人には見えなかった。しかし、人は変わるものでもある。その後変わったのか、金目当てに集まってきた人間達に乗せられ、道を踏み外したのか・・・。
 袖振り合うも多生の縁、という。「多生(他生)の縁」(前世で縁があった)とまでは思い込まないが、それでも「多少」は縁があると思い、袖振り合った人とはできるだけ交流を続けるようにしている。それだけに縁があった人と急に連絡が取れなくなるのは寂しいものだ。

 さて、前出の友人。メールが返ってくるので今度は直接電話をかけた。すると聞き覚えのある本人の声で、外出中なのでケータイに電話して欲しいという留守電メッセージが流れたのでケータイにかける。しかし、聞こえてきたのは「おかけになった電話番号は現在使われておりません」というメッセージ。かけ間違いかと思い、再度かけ直すが同じだ。固定電話にかけ直し、番号を再確認して、またケータイにかける。しかし、同じように「番号は使われていない」というメッセージが流れてくる。まるで狐につままれたような気分だが、彼の消息を知っていそうな相手を探し、連絡を取って分かったのは1か月前に急死していたことだ。64歳。まだ旅立つには早過ぎた。

 この1年、こうしたことが周辺で相次いだこともあり、最近は温故知新(温故の方にウェイトがかかっているが)に努めている。以前はある程度の人数を集めた懇親会を中心に開催していたが、ある時、4,5人の少人数で話し込む会の味を覚えて以来、メンバーを少しずつ替えながら集まり、じっくり話し込むようにしている。
 交流はアナログに限る、とは言わないが、アナログ交流のいいところは話の思わぬ展開、発展、飛躍があることだ。当初、予想もしなかった結果を得ることもあるし、その逆もあるが、こうした予想外のことが起こるのが楽しい。

「知新」ばかりのデジタル派

 気になるのがデジタル派・デジタル世代。「知新」に熱心な点は認めるが、どこかプラグマティックというか、広がり深まりとも少し希薄な感じがするのは私だけだろうか。
 どこにいくにもスマホを手放さず、暇さえあれば5インチ前後の小さな画面を見つめているのだから、「世界」は手の中にあると思うのも間違いではないだろう。実際それで世界から情報を得、世界と繋がっているのだから。ただし、それはラインという線を通してでだが、有線時代はまだ多少なりとも線を通して繋がっているのだと思えても、無線接続の場合はその感覚さえなくなる。いま覗いている小さな画面が「世界」の全てだと思ってしまうのはやむを得ないかもしれない。その結果、現実とネット社会を勘違いしなければいいが。
 ある若手経営者がFacebookに「◯◯ナウ」と某所で会食している写真を載せた。そこには様々な分野で頑張っている若手2代目、3代目経営者と一緒に会食しているとも記されてあった。
 別にこのことは問題ではないが、あいにくその日、彼は顧客先に出かけ打ち合わせをする予定になっていた。ところが、それをキャンセルして飲んでいたことがFacebookの記事で図らずも先方にバレてしまったのだ。当然、先方はいい感じを持たないだろう。
 そえにしてもなぜ、こんなことをやってしまうのだろうと思うが、万引き場面や食品の上に寝そべった写真をFacebookやTwitterに載せる心理とそう差はないのかもしれない。5インチ前後の画面を「世界」と勘違いしたり、無(い)線で繋がっている「世界」を現実的な線で繋がっている(現実)と思ってしまうのだろう。最近の犯罪にどこか現実感がないのも、こうしたことと無関係ではないかもしれない。

 「古きをたずねて新しきを知る」と言うが、いまの時代、「古きをたずねる(先人の思想や学問を研究する)」ことが欠けている。賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶと言うが、いま必要なのは「古きをたずねる」ことではないだろうか。温故ばかりでも発展がないが、知新ばかりでも困る。必要なのは両者のバランスだが、「検索」の世界を離れ、じっくり物事を考えてみてはどうだろう。いままで見落としていたものが見えるかもしれない。

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