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宗教とは何か〜二極化する役割(3)


 90年代前半と言えば仏教関係者に危機意識が目立ち始めた頃ではないか。葬儀と法事の時だけの仏教でいいのかという危機感が。もちろんこうした危機感は単に仏教だけの問題ではなく、カトリックも含めた既存宗教に共通する問題意識だが、日本においては仏教離れが早くから顕著であったため仏教の方がより危機感が強かったに違いない。
 それもこれも自らが招いた結果である。「坊主丸儲け」と揶揄されたのはなぜか。そのことを、もっと早くから、真剣に考えるべきだったろう。そうすれば日本仏教の形はもう少し違ったものになっていたかもしれない。
 とはいえキリスト教も状況は似通っており、フランシスコ教皇が「最新のスマートフォンやスピードの出るスクーター、注目を集める車を所有することから真の喜びは生まれない。車は仕事に必要だが、買うなら質素なものにしなさい」と敢えて言及しなければならなかったことからもよく分かる。

 モノが溢れ、社会が豊かになれば精神世界は遠のき、人は精神的な豊かさより物質的な豊かさの方に流れやすい。あたかも水が低きに流れるように。
 その一方で人は失った過去を懐かしみ、「青い鳥」を追い求める。かつて世界中の人々が「青い鳥」だと思った「中国」は「改革開放」を経て、その姿が白日の下に現れると、貪欲極まりない「黒い鳥」だったことが明らかになり、人々は再び「青い鳥」を探す旅に出なければならなくなった。
 次に見つけたのが物質的な豊かさではなく「国民総幸福量」を掲げる、アジアの小国ブータンだ。人々(富者)は今度こそ本物の「青い鳥」を見つけたと思ったに違いない。
 物質的な豊かさが人々を幸せにすると信じ込み、国民総生産のアップに努めてきたが、それは人を幸せにするどころか、むしろ格差の拡大を生み、精神の荒廃を生んでいると気付き、未来を悲観しかけていた時、全く違う価値観、物質的充足感ではなく精神的充足感を追い求めようとしている国が現れたのだから、これこそ「青い鳥」と思い込んだのは当然かもしれない。
 だが、それは本当に「青い鳥」だったのか。物質的な豊かさとは無縁なはずのブータンの首都では最近、ケータイを使う人が増え、不動産価格が高騰しているという。
 皆が貧しい時には人は助け合い、精神的な充足感を重視するが、物質的に豊かになるに従い、それも皆一律に豊かになるのではなく、豊かな者とそうでない者の差が出てくると、人は奪い合いを始め、格差がますます拡大していくのは、中国が証明した通りだ。ブータンもそうならなければいいが。

宗教とは何か

 話が少し本筋から外れたので元に戻そう。
いま、宗教は貧者・弱者の側に立ち、彼らの精神的支えになろうとするのか、それとも宗教ビジネスの方にウェイトを置くのかの二極化になっているが、この傾向は今後も続くのか、それとも宗教本来の役割を取り戻す方向に収斂していくのだろうか。
 すでに見た通りカトリックは新教皇を迎えた約3年前から、教会の内部に籠もり、権威主義になりつつあった姿勢を反省し、貧者・弱者の教会へと軌道修正を図ろうとしているように見える。
 一方、日本仏教はどうか。仏教系寺院の数はキリスト教系教会の数よりはるかに多いが、貧者・弱者に対する行動は違っているように見える。もちろん一切ボランティアや支援活動をしていないと言うつもりはない。ただ、数の上で劣るキリスト教系教会がホームレス支援活動等に熱心に取り組んでいるのに対し、仏教系寺院が取り組んでいる比率は少ないように感ずる。この差は一体どこにあるのか。

 キリスト教と仏教は一神教か否かという違いはあるが、どちらも人々の寄付で支えられている点は同じだろう。これは皮肉な見方をすれば人の善意にすがって生活していると言える。自ら生産活動に従事していないという意味で。
 それなら人の善意はよく分かっているはずだし、貧者・弱者に対する視線はやさしいはずである。そして行動はホームレスなど貧者・弱者への支援にも向かうのではないかと思うが、なぜ両者の間で行動に差が出るのか。
 一つには仏教とキリスト教の、神(仏)への接し方の違いがあるのではないだろうか。キリスト教は一神教であり、「全能の神」にひたすらすがるのに対し、仏教は自力、他力の違いはあるにせよ、根本に修行を積み重ね悟りを開いた釈迦像がある。
 もちろん異論反論は多々あると思うが、大雑把という誹りを恐れず言えば、どこかに自助努力をしない者に冷淡なところがあるのではないか。その典型が密教系で、ひたすら修行を積み、悟りの境地に至ろうとする。それは他者救済というよりも自らが悟りを開き、仏の境地に少しでも近づこうとする自己救済に近いと言える。

 この他者に向かうか、自己に向かうかという姿勢の違いがキリスト教と日本仏教の日常活動の違いにもなって現れているのではないか。それは密教系だけでそれ以外の宗派には関係ない話だとか、仏教系寺院・僧侶も大災害の時には様々な支援活動を行っているという反論もあるだろう。
 もちろん、そうした活動を知らないわけではない。それでもなお問いたい。もっと門戸(文字通り寺の門を含め)を開放し、ホームレスを受け入れたり、庶民の生活に近づいてもいいのではないかと。そうすれば「葬式仏教」と言われることもなく、また「宗教ビジネス」を脱し、本来の宗教活動に戻れるのではないかと考えるが、いかが。
                                               (4)に続く

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