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 被災地からのレポート(4)−−心のケアが必要


 美作市・佐用町豪雨水害で、佐用町に住む70代の女性が被災数日後、自ら命を絶った。将来を不安視しての自殺と思われる。こうした悲劇が起きる度に「心のケアが重要」という言葉がいわれる。では、本当に必要な心のケアとは何なのか。どのようにすればいいのだろうか。

話すことで不安解消に

 あまりにも悲しい出来事だった。とても他人事とは思えなかった。
家を新築して1年ぐらいだったらしい。4人家族と新聞に載っていたから、同居かどうかは別にして、家族はいたと思われる。それなのになぜ。なにも死ななくても、と思うが、軽々しくそんな言葉はいえない。もしかすると母もそうなったかもしれないし、被災者誰もにその危険性があったからだ。
 地方の町はいずこも過疎化、高齢化が進み、残っているのは高齢者ばかり。その上、独居か2人住まいだ。家族はいても多くが離れた都会に住んでいる。被災直後は帰ってきても、いずれそれぞれの居住地に帰る。後に残るのは寂寥感と、なにもかも失った絶望感。誰がこの気持ちを共有してくれるのか・・・。それで将来に絶望するなとはいえない。それでもなおかつ命を絶つのは待って、といいたい。

 「被災者の心のケア」とはよくいわれる。
しかし、それがなぜ必要なのか、心のケアとは何なのかは、実のところよく分かっていなかった。今回、母が被災者になるまでは。
そして、この言葉がいわれるほどには実施されていないことが分かった。

 年を取ってくると同じことを繰り返し喋り、周囲を辟易させる。
「その話はさっきも聞いた」
 忙しいとついそう言ってしまう。
 実際、後始末に追われている時に、他の人間にはどうでもいいようなことを繰り返し話したり質問されると、またかという気持ちを通り越して苛立ちさえ覚えてしまう。
「お願いだから仕事の邪魔をしないでくれる」という気持ちになる。

 ただ、そうした母の様子を見ていてあることに気付いた。
不安なのだ。言い知れぬ不安を感じているのだ。
不安感は他人に話すことである程度軽減できる、と心理学でいわれている。
話させなければいけないのだ。
しかし、皆が忙しいと話を聞く暇がない。
すると、ますます不安になり、情緒不安定になり、体調の変化や、健忘症、認知症になる可能性もある。

 そうした危険性を感じたので、被災4日後に被災家庭を訪問し、健康状態を尋ねて回っている保健師に次のように要望した。
「年寄りの話を聞いてくれるようなボランティアはないだろうか。でなければ、年寄りが集まって水害体験をそれぞれ語り合う場のようなものを設けてもらえないだろうか」と。
「そうですね。そういうことが必要ですね」
 と言ってくれたが、28日現在、そのことが実施された形跡はない。

あなたの気持ちが欲しい

 水害の後片づけが順調に進むのと正反対に母の心は荒んでいっているように見えた。
あれだけ好きだったTVの時代劇も見ず、新聞も読む気がしないといって開こうともしなかった。
 外界の情報を遮断し、自分の内に籠もることが多くなった母だが、友達が訪ねてきた時だけは涙を流して喜んだ。
他人がしてくれるちょっとした親切がとてもうれしいのだ。

 25日、高梁市の保健師がボランティアで回ってきてくれた時もうれしそうに話していた。
若い保健師だったが「大変だったですね。ご苦労されましたね」と母の話を熱心に聞いてくれたからだ。
話を聞き、共感してくれることで、心の負担が随分軽くなるのだ。

 その時にも「被災老人を集めてお互いに被災体験を語り合ったりする場を作ってもらえないだろうか」と要望した。
 1軒1軒回って健康状態を聞いてくれることはとてもありがたいし、必要なことだが、人数も時間も足りないだろうし、そういうことと併行して心のケアをして欲しい。
皆が集まってそれぞれが話しをすることで、大変なのは自分の所だけではない、他の人も大変だったんだと感じたり、孤独感から逃れることもできるはずと思ったからだ。
でも、なぜか行政はこういうことには動きが鈍い。

 被災後、母は人の情への反応がプラスとマイナスに極端に表れだした。
ちょとした親切や、やさしい言葉に涙を流して喜ぶ代わりに、不親切な身内の態度には激しい怒りをぶつけるようになった。
 なぜ、そんなことで怒るのかと思うのだが、「近くにいるのに見舞いに来ない」といって怒るのだ。
最初のうちは愚痴る程度だったが、段々怒りに変わり、ついに電話をして激しく相手を罵り、泣き崩れた。
畳の上を転げ回り、畳といわず床といわずバンバン叩きながら大声で1時間以上泣き続けた。
このまま狂ってしまうのではと案じたほど、その泣き方は激しかった。
寂しいのだ。
PTSDの表れである。

 驚いた義姉が午後に青い顔をして飛んできて非礼を詫びてくれたので、以後は落ち着いたが、その時母が繰り返したのは次のような言葉だった。
「私はモノが惜しいんじゃないし、お金なんか持ってこなくていいんよ。そうじゃないの。心が欲しいの。すぐ駆け付けてくれて『英子さん大変だったな』と一言いってくれれば、それでいいのよ。私は支えて欲しかったの。寂しかったんよ」

 翌日、母に冗談めかして言った。
「わたしゃ、あなたの心が欲しい、というのは恋人同士の台詞だよ」
「皇后陛下が被災地を見舞われて、よく言っているだろうが。手を取って『頑張って、頑張って』と。あれでいいのよ。モノじゃないの。気持ち。気持ちを表してもらえばいいのよ」
 被災家族の気持ちにより添って欲しい。
この気持ちは皆持っているに違いない。
いの一番に来てくれると思っていた相手が来てくれない。
そのことに「見捨てられた」ような寂しさを母は感じていたに違いない。

 佐用町の女性も気持ちにより添い、話を聞き、大変だけど頑張ろうね、と言ってくれる人達がいれば、もしかすると自ら命を絶たずに済んだかもしれない。

 PTSDはいろんな形で表れる。
だからこそ、これから長い時間をかけて心のケアをする必要がある。
人々の記憶から水害ニュースが消えた後もずっと・・・。



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