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視聴率の罠とメディアの罪(3)


ジャーナリズムは死んだ

 とはいえ、にじり寄っていくのは娯楽番組の方で、ドキュメント、報道制作側にはまだ多少なりとも矜持があった。少なくとも比較的最近までは。ところが今回、ドキュメント、報道制作側が結果的に演出に手を貸した(染めたとまでは言わないが)のだから、メディアにとっては一大事のはず。にもかかわらずメディア側の危機感が非常に希薄な気がする。それはその後の検証報道がなされていないことからも明らかだ。もしかすると、どこかのメディアが検証していたのかもしれないが、少なくとも毎日新聞では行われていない。

 問題はなぜこのような番組が作られたのか、ということだが、一つには報道制作に携わる人間にプロ意識が欠如してきたことが考えられる。
 次に経営的な圧力。報道番組といえども経営と無関係ではなく、視聴率が稼げる報道番組を作れという有言、無言の圧力が制作現場にかかっているのは公共放送、民放とも同じだろう。
 3つ目は自社制作番組が減り、制作プロダクションに丸投げする番組が増えてきたことだ。
 ここではそれぞれについて詳述することはしないが、一見別々に見える3点は実は根が同じだということだけ指摘しておこう。

 本稿と直接関係しているのは3番目の自社制作番組ではないという点。より正確に言えば、NHKスペシャルで放送した番組は外部から持ち込まれた企画で、外部出身の契約ディレクターが制作に深く関与していたという。
 こうした番組制作は近年増えているようだが、問題になるのもまたこうして制作された番組内容である。「ほこたて」でヤラセが発覚したのも外部プロダクションに丸投げして制作されたもので、結果「ほこたて」番組そのものが打ち切りになった。だが、番組関係者にとってはある意味いいタイミングだったかもしれない。
 というのは、シリーズ化されるとネタを探すのが毎回大変になってくるからだ。そのうちネタ探しに追われ、適当な所で妥協したものを作ったり、前回のネタを角度を変えて使い回したり、多少面白くするための「演出」を加えるようになっていく。

 NHKの上記番組は完全自社企画・制作だったら、果たして放送されただろうか。恐らくチェック機能が働き、あのような形では放送されなかったに違いない。
 いくら制作現場にプロが少なくなってきたとはいえ、社内制作ならまだ現場を見知っている、経験のある人材が多少なりとも残っているだろうからだ。
 外部持ち込み企画、外部に制作依頼する企画の場合、制作現場に社内の人間が立ち合わなかったり、出来上がりを社内でチェックするだけということが往々にしてある。
 特に発注側と制作現場の人間の間にキャリアの差があれば、ついそちらにお任せという形になる。今回の場合もこれに近い形だったのではないだろうか。

 過剰な演出、ヤラセがまかり通るのは「おかしい」「裏取りが必要」と言える人間がいないことが原因である。
 このことは業種、分野が違っても同じで、イエスマンだけのワンマン体制ではどこでも似たことが起こる。

 いままで不祥事を起こしてきた企業に共通するのは、
1.現場経験がないか少なくても役職が上というだけで現場に指示している
2.ワンマン体制でトップや上司に「ノー」といえる人間がいない(飛ばされている)のいずれか、あるいは両方である。

 メディアの対応は以上見てきたような内容だから正直うんざりするが、ジャーナリズムが死んだのは随分前のことだし、大手メディアにジャーナリズムを求めること自体すでにない物ねだりなのかもしれない。
 ジャーナリズムの最大の使命は権力と権力者の監視である。そのためジャーナリストは権力とは常に一定の距離を保つ必要がある。
 これは言うほどたやすいことではない。なぜなら権力者の方から常に懐柔の働きかけが来るからだ。
 猫なで声で近づいてくる人間には注意しろ。この言葉はとりわけジャーナリストは肝に銘じておかなければならない。
 人は弱いものだ。ともすれば誘惑に負ける。誰しも楽をしたい、いい生活をしたい、という誘惑からは逃れない。渇しても盗泉を飲まず、という生活は言われる程簡単ではない。それなりの覚悟と犠牲がいる。
 金銭的に一番の負担を被るのは家族だろう。それでもなお支えてくれる思想と理解がなければ到底貫徹できない。言うならジャーナリストの我儘に理解を示し、付き合ってくれる伴侶がいるかどうかが、最終的にはその人の人生にかかわってくる。
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