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安楽死・尊厳死について考える。(1/2)


 11月1日、一人の女性の死が話題になるとともに様々な議論を呼んだ。この女性はブリタニー・メイナードさん(29歳)。彼女は脳に悪性腫瘍ができ、医師から余命半年と告げられていた。まだ結婚1年目である。本来なら未来は一杯あり、いまが人生の最も輝いている時のはずだ。それなのに彼女は末期ガンの宣告を受けただけでなく、激しい痛みに襲われていた。悩んだ彼女が最後に選んだ道は自ら薬を服用して亡くなる安楽死だった。
 欧米はキリスト教の死生観もあり、アメリカでも安楽死は法的に認められていず、薬を処方したり注射で病人を死に至らしめる行為を行うと罰せられるのは日本と同じだ。
 しかし、州によっては安楽死を認めているところもあるようで、彼女は以前住んでいたサンフランシスコから、州法で安楽死を認めているオレゴン州に移住した後に予告通り安楽死を実行した。
 予告通りと書いたのは、ここに至るまでの経緯説明を含めて動画投稿サイトの「ユーチューブ」に彼女が動画をアップし、その中で11月1日に実行すると予告していたからだ。このことは当然、アメリカのみならず全世界で様々な議論を呼ぶこととなった。

安楽死と尊厳死は別

 ここではそのことの是非を論ずるつもりはない。だが、そのことがきっかけで死についてもう一度考えさせられることになったのは事実だ。特に弟の最期について。
 日本では安楽死は認められていないが、尊厳死は認められている。というより全ての死は尊厳死であるべきだろう。
 実はこの2つ、多少混同して、あるいは同意語に近い感覚で使われることがあるようだが、明確に違っている。
 安楽死とは「助かる見込みのない病人を、本人の希望に従って、苦痛の少ない方法で人為的に死なせること」であり、尊厳死は「一個の人格としての尊厳を保って死を迎える、あるいは迎えさせること」である。(「広辞苑」より)
 尊厳死について「広辞苑」は続けて次のように記している。「近代医学の延命技術などが、死に臨む人の人間性を無視しがちであることへの反省として、認識されるようになった」。
 以上のことからも分かるように、前者は殺人(人為的に死なせる)であり、後者は自然死である。当然、前者の行為を行った者、補助した者は法で罰せられる。

 しかし、である。安楽死か尊厳死か、違法か否かという単純な二分法だけでは割り切れないものがあるのも事実だろう。例えば冒頭の女性、ブリタニーさんの場合、彼女の置かれている境遇に同情し、できれば激痛から救ってあげたいとは誰しも思うのではないだろうか。その一方で、救ってあげたいけれど死に力を貸すことはできないと。
 ここが難しいところである。仮に絶対に助かる見込みのない人がいるとして、その人本人から命を絶つことを懇願された場合、人はどうするのか、どうすればいいのか。それには法律を変える必要があるのか、変えれば済む問題なのか。
 もし、安楽死を法的に認めた場合、どのような問題が生じるのだろうか。最も危惧されるのはグレーゾーンが増えることだろう。いままでも医療関係者による安楽死補助が問題にされてきた。同一人物が何人もの病人を安楽死させていた例もある。
 ここで問題になるのは本人から懇願された結果なのか否か。もしそうだとすれば、それを証明するものがあるのかどうかだが、それは難しいだろう。懇願したとされている本人はもうこの世にいないし、書面に書き残してくれていればいいが、第3者の立会いのもとでなければ、書面の有効性が担保されないだろう。
 また恣意的な考えが入り込まないとも限らないし、安楽死に名を借りた殺人も起こりうるかもしれない。それでなくても最近、金目当てで結婚相手を毒殺したと思える例が日本でも増えているだけに、安楽死を法的に認めることには慎重にならざるを得ない。

総論賛成、だが現実的になると

 では、尊厳死の場合はどうか。これには異論がなさそうに思えるが、ことはそう単純でもない。「機械に繋がれて生かされたくはない」「延命処置は望まない」。こう言う人は多い。ただし、それは本人が元気な時に、だ。いざ、その時になると分からない。人は状況によって変わる。また仮に本人がそう望んだとしても、家族がそれを決断できるかどうかもある。
 卑近な例だが、今夏、叔母が94歳の誕生日を目前にして亡くなった。すでに1、2年前から寝たきりで、子供達が見舞いに訪れても誰か判断できないような状態だったらしいし、年齢を考えれば天寿の全うである。誰もがこれ以上の延命処置は望んでいなかったはずだが、いざその瞬間になると子供達の間で意見が分かれた。病室に駆け付け立ち会った2人は人工呼吸器のスイッチを切ることに同意したが、離れていて、駆け付けられなかった1人は再生処置を施すようにと強固に要求したのだった。
 家族間で意見が分かれると病院側も困るだろう。では、多数決で、というわけにはいかない。病院側は家族の同意なくしては装置を外せない。もし、同意を得ずに外すと、それは安楽死させたことになる。

 それでも家族がいる病人はまだ結論が出せるからいいが、身寄りのない病人が増えていることがいま問題になっている。意思表示できるうちになんらかの形で意思を明らかにしてもらっていればいいが、病院に搬送された時はすでに意識がないケースが増えているとのこと。そして今後こうしたケースはますます増えていくことが予想される。これはとても他人事ではない。明日は我が身かもしれない。

 ところで叔母の場合はどうなったかと言えば、反対していた1人も程なく了解した。連絡を受けた時は母親への愛情が強かったが故に、感情的に納得できなかったのだろうが、少し時間がたって落ち着いたのだろう。因みに彼の職業は医師である。いままで同じような場に直面してきたはずである。それでもいざ自分の身に降るかかってくると冷静ではいられなかったということだ。

 このように総論賛成、現実的に自分の身に降りかかると反対ということはよくある。私も父の死に際して、医師から「脳死」「機械呼吸」「自発呼吸はしてない」というような言葉を聞かされ、装置を外すかどうかを暗に求められた時に、「スイッチを切ってくれ」と母に代わって言ったが、本当にそれでよかったのかどうか、万が一ということはなかったのかと、その後自問し続けた。装置を外した後、父の心臓は10分余りも動いていたし、手も足も温かいままだった。そのことがたまらなかった。切ったスイッチをもう一度入れて欲しかった。そうすれば蘇生するのではないか、蘇生したのではないかと思いと、父の生命を奪ったのは私だったのでは、という二重の思いに苛まれた。
                                               (2)に続く

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