言葉の短縮は思考の短絡を招く(2)
 
〜音節の平板化が思考も平板化する


音節の平板化が思考も平板化する

 言葉(言語)は記号でも単語の羅列でもない。思考の具であり、その人自身の思考でも、思想でもある。人は母国語で思考する。母国語がしっかり身についていないと思考ができないということは脳科学者などもよく指摘している。
 いい歳をして未だに「好きくない」みたいな言い方をしている人がいるが、言葉が変だと思考も変になると気付かないのだろうか。

 近年、言葉を短縮するのが流行っている。なんでもかんでも短くしたがる。同じような傾向は世界で見られるようだが、特に日本では顕著に見られる。
 だが常に言葉を省略したり短縮して使っていると、思考が短絡的になる。なんでもかんでもアクセントを平板にしていると、思考も平板になる。これは恐ろしいことだが、すでに社会にはそのような傾向が現れている。

 それはなにも日本に限ったことではないからよけいに恐ろしい。中国語は音節の上がり下がりがはっきりしていて、その種類が4つあることから「四声」と言われているが、いま第3声が使われなくなりつつあるという。あと半世紀もすれば、中国語は四声ではなく三声になっているかもしれない。ベトナム語もそうした傾向にあるというから、日本だけでなく世界中で思考の平板化が静かに進みつつあるのかしれない。

 思考が平板化してくると考え方が同質化し異見を認めなくなる。異見を言う者に対し排除の論理が働く。かつての村社会で行われた「村八分」という名の異質な者に対する排除である。その行き着く先は戦前戦中の日本であり、ファッシズムであり、共産主義、全体主義だ。
 いま、世界はそこに向かいつつある。2つの世界に分断されながら、それぞれの極では同質化が極端に進んでいる。あれか、これか、敵か味方か、賛成か反対かで、第3は認められない。
 そしてそれを煽る道具にツイッターのような短文が使われている。なぜなら他人を攻撃(口撃)する時、人は理路整然とした文章(それは往々にして長中文になる)ではなく、短文もしくは単語で表現するからだ。それは時には「罵(ののし)る」という表現の方がピッタリくるような方法で。「フェイク(偽)ニュースだ」「エセ知識人」。何の根拠も示さず、そう決めつけるだけで、一部の人の感情に訴えられることを彼らはよく知っている。
 こうして人はますます自ら思考する力を失っていき、熱狂的に短い言葉(スローガン)を叫ぶことに同調し、そう叫ぶことで高揚感、達成感のようなものを味わい、それがさらに次の行動へと駆り立てていく。
                                               (3)に続く

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