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寄付は免罪符。逆にいえば寄付さえすれば・・・。

 栗野的視点(No.258、259)で「なぜ、日本にビル・ゲイツが出ないのか」を書いたところ、前回紹介した2氏以外にも多くの方からコメントが寄せられました。コメントをお寄せいただいた皆さん、ありがとうございます。

 実は上記テーマにはいくつかの隠れテーマを散りばめていたので、頭のいい読者はお気付きになったと思います。
 物事の本質に迫る場合、直接そのテーマを論じる方法と、周辺の様々な事柄を論じながら、その本質に迫る方法があります。
 後者は「将を射んと欲すればまず馬を射よ」という方法で、迂回しながら対象(テーマ)に近付いていきますから、どこかまどろっこしさもありますが、テーマが複雑な場合は実はこの方法が案外、対象を明らかにすることができるのです。
 というのも、物事はコンピューターのように2進法で進んでいけるわけではないからです。白か黒か、イエスかノーで割り切れるほど、この世の現象は単純ではないのです。
 さて、私は上記テーマの中にいくつ隠れテーマを散りばめていたのでしょうか。

 それはさておき、20代の若い人から下記のようなコメントが寄せられたのを見た時、この国の今後も、そう悲観すべき材料ばかりではないかもしれない、と思いました。

>戦前、戦後まもなくの経営者には私利ではなく
>公利のために粉骨砕身頑張った人達が数多くいる。

という点に、大変共感いたしました。
小職が傾倒しております渋沢栄一もその一人で有ると思います。
これからも、渋沢翁を目標に生きていきたく存じます。

      エヌ・アイ・エフSMBCベンチャーズ(株)九州支社・濱井雅俊


 ところで、もう少し宗教と寄付の関係について見てみましょう。
これはすでにNO258で触れたことですが、キリスト教徒(西欧人ではなく)にとって寄付とか慈善事業に従事することは非常に重要な意味を持っています。
 ハローデイ常務・熊本ハローデイ社長の神戸みずちさんは次のように一蹴しています。

「なぜこの国にゲイツが出ないのか? 簡単です。『金持ちが天国の門をくぐるの
は駱駝が針の穴を通るより難しい』とマタイ伝にあるからです。彼らにはキリスト
教に根ざした怖れと奉仕の精神があります」


 面白いのはキリスト教では奉仕、寄付といいます。
仏教ではお布施といいます。
ともに、たくさんすることで天国に行けます。
 新興宗教の多くはこの「たくさん寄付、お布施をすることで天国いける」という
部分を強調して貢がせています。大体、全財産を寄付しろ、なんていう宗教は怪し
いのですから、皆さん欺されないように。

 物事を考える時に重要なのは生い立ちです。
どのようなものも歴史的規制を受けるということです。
宗教も例外ではありません。
キリスト教、仏教ともに歴史的規制を受けて誕生しています。(イスラム教についてほとんど触れないのは、私がイスラム教について知識がまったくないからです)

 これらの宗教が誕生した時、第2次、3次産業は存在していません。
つまり両宗教ともに第1次産業しか理解できなかったわけです。
平たくいうと、報酬は額に汗して受けるものだったのです。
その当時の金持ちは他人の労働報酬をかすめ取っていたものです。
いわゆる搾取です。

 宗教は万人を救うものでないと広まりません。
金持ちは地獄に堕ちるとはいえないわけです。
そこで考え出されたのが寄付、お布施という行為です。
これをすれば本来天国に行けない人間でも天国に行ける、と。
 神戸さんの「金持ちが天国の門をくぐるのは駱駝が針の穴を通るより難しい」という指摘を思い出してください。
 では、金持ちが天国の門をくぐりやすくするにはどうすればいいんだ。
それは寄付をすることだとなるわけです。
 だからキリスト教徒は寄付をするのです。
それにしてもビル・ゲイツほどほぼ全資産を寄付する人間はいませんが。

 NO258でも触れていますが、第1次産業、つまり直接労働しかなかった時代に誕生した宗教が第2次、3次産業の時代に生き残るのは非常に難しい。
 シェークスピアの「ヴェニスの商人」はまさに第2次、第3次産業の誕生についてどう対処するのかということがキリスト教の内部で問われた時代です。
 自らの額に汗しないシャイロックの金貸しビジネスはキリスト教では認められない。
しかし、現実社会は自らの額に汗する労働だけではなくなってきている。
両社のバランスをどうするか、という問題です。

 「ヴェニスの商人」で有名なシーンは肉1ポンドのカットを認めるが、それ以上でもそれ以下でもダメ、ましてや血を流してはいけない。それは証文に書かれてないからだという場面です。
 これは善が勝つというような勧善懲悪の世界ではなく、「契約」を破ってはいけないというキリスト教的な価値基準です。
「契約」は神との間に結ばれるものだからです。
シャイロックは「契約」を盾に肉1ポンドを要求しているわけです。
もし、ここで「契約」を認めなければ、キリスト教の原点を否定することになります。
だから「契約」は認める。ただし、そこに書かれている文言以外のことはダメだといっているわけです。

 誕生当時のキリスト教の中では認められない行為、産業が出てきた時、キリスト教は生き残る手だてを考えたわけです。
それが寄付という行為です。
実はキリスト教はこの両者の微妙なバランスの上に均衡を保っているわけです。
 詳細はマックスヴェーバーに譲りますが、いずれにしろこうした規範が彼らの生活を規制しているわけです。

 頭のいい読者はここでもお分かりだと思いますが、逆にいえば寄付さえすればどんなに儲けてもいいということになります。
 そうなのです、寄付行為が実はキリスト教徒の免罪符になっている側面が多分にあるのです。
 まあ、だからといってビル・ゲイツその他の経済人が寄付する行為を称賛しそこそすれ、揶揄するつもりも批判するつもりもありませんが、「金持ち」の皆さん、どんどん寄付をして免罪符を得てください。それで皆さんの精神(こころ)も少しは軽くなるでしょう。


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