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 歴史はらせん型に進む−−甦る農村共同体的連帯の動き


新自由主義的経済下の「勝ち組」総崩れ

 アメリカのサブプライムローンに端を発した金融不安は瞬く間に世界に広がり、不動産、銀行、証券、自動車、半導体と次々に巻き込み、不況の嵐が国内に吹き荒れ、いまだ収まる気配はないが、新自由主義経済下で「勝ち組」と称された企業ほど「津波」の直接被害を受けたのが特徴だ。
「津波」が大きかっただけに、その他の分野も余波による大きな被害を受け、そのことが景気の悪化をさらに大きくしたといえる。

 いつの時代でもそうだが、災害に遭遇した時に人が取る態度は2つに分かれる。
 1つはまず自分が助かろうと逃げる人で、もう1つは自分より弱い人(女性、子供、老人)を助けようとする人である。後者は被災後のボランティア活動という形などで現れる。
 今回はこの2つの動きが際立った。

 「勝ち組」と称された企業ほど雇用調整という名の下に派遣社員、期間従業員など非正規社員に対する突然の、容赦ない削減(契約途中での雇用打ち切り)を行い、そのことが事態をより深刻にさせた。
 麻生福岡県知事が25日の定例会見で次のように怒りをぶつけた。
「中小企業の皆さんは一生懸命、雇用を維持しているが、大企業はどんどん人員整理をしている。企業の大きな社会的役割は雇用維持だということをよく考えてもらいたい」
 さらに「内部留保があるということも十分考えてほしい」と、この人にしては随分まともな感覚で苦言を呈したが、まさにその通り。今回の知事の発言を全面的に支持する。

 一体、企業の社会的使命はどこに行ったのか。

甦る農村型共同体的連帯

 大企業の身勝手ともいえる動きに対して中小企業の方は本当に一生懸命に雇用を守ろうと努力している。
この違いはどこから来るのだろうか。

 荒っぽい言い方をするが、私は「貧乏人ほど寄付をする」というのが持論だ。
ここでいう「貧乏人」とは「持たざる者」という意味である。
ボランティアをするのも持たざる者で、金持ち(富める者)ほどボランティアをしない。
 逆の言い方をすれば、「金持ち」とは「金(持っているもの)」を使わないから金持ちになり、「持たざる者」は「持っているもの」を使うから「持たなくなる」のだ。
 では、なぜ、「持たざる者」はもともとそれ程多く持ってないにもかかわらず、その少ない中から他者のために分け与えようとするのだろうか。
 それはキリスト教的な「一つのパンを分け合って食べる」という教えのためか。ボランティアを義務付けられた文化のせいなのか。どちらも否だろう。

 それは自分も他者からそのようにされてきたからである。
他者から受けた愛情を他者に返すという当たり前のことが行われているのである。
 この場合の他者とはある特定の他者ではなく、他者一般である。
つまりAさんから受けた愛情のお返しをAさんにする(そういう場合もあるだろうが)ということではなく、BさんとかCさんという自分以外の人にお返しをすることで、この関係が成り立っているのだ。

 例えば阪神・淡路震災の被害者がその後の中越地震の時に現地入りしてボランティア活動でお返しをしたり、中国・唐山地震の被災者が中国・四川大地震の直後に炊き出しを持って現地入りしたのもそうである。

 こうした関係は農村型共同体に顕著に見受けられる関係である。
一時期流行った農耕民族と狩猟民族という対比でいうなら、農耕民族的な助け合い(連帯)である。
 農耕民族的な助け合いとは、生きていくための知恵、そうしないと生きていけないからである。
 田に入れる水にしても、田植え、稲刈りにしても、共同体に属する人々が互いに労働力(だけでなく知恵も)を融通し合って生活しているのである。

日本的雇用を見直す動きが

 この10年、日本はアメリカ経済(新自由主義経済)を見習い、雇用の流動化を大胆に進めてきた。今回の「ハケン切り」に象徴される動きはその結果である。
 ところが、こうした身勝手ともいえる大企業の動きに反するように地方自治体や中小企業の中に雇用確保の動きが広がっている。
 中には不況ビジネスのようなものもあるが、そうしたものは一部で大半は農村型共同体の論理に基づく連帯。
 いつもは動きが鈍い行政だが、今回、地方自治体の対応は感心するほど速かった。臨時職員募集、住居の提供など、知恵を絞って、今すぐ出来るところから始めている。まさに被災地住民に対する支援の動きと同じ動きがここでも発揮された。これは日本のこれから先に対して明るい光のようなものを示している。

 このほかにもタクシー会社、販売店などあらゆるところが支援の手を差し伸べたし、年末の炊き出し、住居の手当も各地で行われている。
必要なのは当座の住まいである。いつ支給されるか分からない政府の給付金より、今日、明日の住まいと食事である。
 こうした動きの中でも注目したいのは、大分県で始まった離職者の農場への受け入れである。雇用の受け皿と産業の再興という両面から大いに評価できるが、今一つ他の地域に拡大しないのが不思議だ。

 恐らく今後、ワークシェアリングという動きも出てくると思うが、アメリカの新自由主義経済追随から脱し、かつての日本的雇用を見直すような動きが出てきたのは、暗い中にも一筋の光明ではないだろうか。

 歴史は一本筋に進むのではない。
それはある時には過去に逆戻りしているように見えることもあるが、らせん型に進んでいるのである。
 ここ10数年、ジコチュウと呼ばれる自分勝手な日本人が増殖してきたが、この不況がきっかけとはいえ、連帯、協力、助け合いという動きが出てきたのは未来の明るい兆しではないだろうか。

 どんなに暗い夜でも、朝が来ない夜はない−−。
病気の「気」も景気の「気」も同じ。
気持ちの持ちようで悪くもなればよくもなる。

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