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怒りを忘れた若者と、筋を通さない大人達に。


 山道を登りながら、こう考えた。
ニュースを見聞きすれば腹が立つ。情に棹させば流される。筋を通せばうるさがられる。兎角に人の世は住みにくい。住みにくさが高じると文句の一つも言いたくなる。一体こんな世の中に誰がした、と。だが、返って来るのは「自己責任」という言葉ばかり。システムの問題を個人の努力の問題に矮小化し、それで全て済まそうとする。
 誰も彼もが牙を抜かれ、抜かれた牙の代わりに3Dメガネを掛けさせられて、これこそが「リアル」とバーチャルを見せられている。仮想現実と現実がひっくり返っていることにすら、もう気付かなくなっている。

 「青年よ大尻を抱け」(「書を捨てよ、町へ出よう」)「身もこころも智慧も労働もたたき売っていっこうにさしつかえないが、感情だけはやつらに渡すな」(「ジャズ宣言」)と寺山修司や平岡正明がアジテートしたのは60年代のこと。すでに彼らも鬼籍に入り、現在(いま)は鼓舞したりアジテートする人間はなく、過去を省みて懐かしむか、「上から目線」と言われるのが怖くて若者におもねる大人ばかり。
 過去を美化し、自分たちの青春時代を「凄春」と呼び、懐かしむ悪趣味まではあいにく持ち合わせていないため、私はいつまで経っても丸くはなれず、煙たがられてばかりいる。

 それはさておき、筋の通らないこと、筋を通さない連中が最近多すぎる。まあ、政府からして筋を通さないことばかりやっているのだから、個人に至ってはなおさらだろう。それにしても法的手続きの代行で飯を食っている士業の連中までもが平気で筋を通さなくなったのは問題だ。

 「第一ボタンを掛け違えると、最後までボタンが合わん。掛け違いに気づけば、速やかに最初に戻って第一ボタンから掛け直すことだ。結局それが近道になる」
 社会人になりたての頃そう教えられた。
 間違えた、筋が曲がったと思えば、曲がった所まで戻ってやり直す。そんな分かり切ったことを、いかに成り立てとはいえ民主党政権が知らないはずはない。松下政経塾で勉強した「頭がいい」スマートな連中が多いのだから。
 それともマニフェストは政権奪取の方言で、そんなものは「鴻毛より軽い」と嘯くのだろうか。それなら「政治生命をかける」という言葉もその場限りの方言で、命をかける気などサラサラないに違いない。

 民主党政権は自民党政権的なものの否定で出来た政権である。自民党の「政権公約」が「公約」でなく、単なる言葉にしか過ぎなかった反省から、公約という日本語をカタカナ語に変え「マニフェスト」とした。しかし、日本語からカタカナの外来語に替えただけでは中身は何も変わりはしない。
 大体、民主党議員には「マニフェスト」をmanifest(maにアクセント)と発音する人が多い。一度、NHKのアナウンサーから「manifest」と発音すると「積荷目録」の意味になるから、選挙公約を意味するマニフェストは「manifesto」(feにアクセント)と発音すべきだと指摘されていた。
 事ほど左様に彼らはマニフェストを「積荷目録」程度にしか考えてないから、マニフェストに謳っていたことを素知らぬ顔をして外し、当初、「目録」に入れてなかったことを突然「目録」に入れてくる。

 代わりに力を入れているのが国民への恫喝。「このままでは夏場の電力供給が不足する」程度はまだマシな方で、原発再稼働を止めた場合「日本がある意味で集団自決をするようなことになってしまう」(仙谷由人政調会長代行)とまで言って、国民を恫喝している。
 民主党って庶民の味方(に比較的近い)かと思っていたが、どうやら大いなる勘違いだったようだ。まあ、当初からそれ程期待していたわけではないから、いまさらどうでもいいが。それにしても原発再稼働を止めれば日本が「集団自殺する」とはよく言ったものだ。
 権力を手にした人間が、それこそ「上から目線」(こういう言い方は好きではないが)で言うのは腹が立つ。ちょっと脅かしてやれば、ちょっと金をばらまいてやれば言うことを聞くだろうぐらいに思っているのだろう。

 たしかに「怒れる若者達」はもう随分過去の話だし、「カルチェラタン」も歴史の中でしか語られることはない。60年代後半に怒った、あるいは怒った振りをした若者達も、いまではすっかり牙が抜け落ち、過去を懐かしむだけか、身の回りのことにしか関心を示さなくなっている。
 あげくが「原発の安全神話も崩れ」などと平気で言うのを聞き、腰を抜かさんばかりに驚いた。スリーマイル島原発事故も、チェルノブイル原発事故もとっくの昔に起きているというのに。歴史を学ばないのか、「チャイナ・シンドローム」も観なかったのか。
 余談だが、ジェーン・フォンダはセクシーだった。ピーター・フォンダの「イージーライダー」もよかったが、高校時代は2人の父親、ヘンリー・フォンダが好きで、よく西部劇を観ていたものだ。
 それにしても、そもそもの前提を疑わずにいたこと自体がおかしいが、そのことにすら気づかずにきているとしたら、彼らの「凄春」はファッションでしかありえなかったということだろう。

 かくいう私自身、威張れるものも、誇れるものも何一つ持ち合わせていないが、それでも筋だけは通してきたつもりだ。
 かれこれ20年近く前になるが、某制作会社から九州電力の消費者向けパンフレットの原稿を頼まれたことがある。その時「私は反原発だから原発の記事は書かない」と即座に断った。九州電力の仕事内容に触れれば当然原発のことにも触れざるを得ないだろうと思ったからだ。
 自民党の某議員の選挙民向けインタビュー記事を頼まれた時も、まず議員の名前を聞いた。そして断った。私のポリシーに反するからだ。この時は「栗野さんの名前が出るわけじゃないからいいじゃないか」と言われた(署名記事を旨としているから)が、ギャラも聞かずに断った。
 私は仕事を受けるかどうかはいつも内容を聞いて判断している。受けるかどうか分からない段階ではギャラのことは聞かない。

 かつて魂のために「ノー」と叫んだ若者達の多くは、その後メフィストの誘惑に負け、魂を売り渡してしまった。代わりに手に入れたのは裕福な生活。だが、裕福な生活と幸せな生活が一緒でないことはファウスト博士がすでに経験済みだ。
 いや、正直に言おう。カネは必要だ。カネを稼いだ君達はエライ。「いざとなれば田舎へ帰って農業でもすればいい」。こんな言葉はもうなんの役にも立たない時代になったのだ、「3.11」以後。

 自給自足の倹しい生活をする時間さえ「灰色の男」(ミヒャエル・エンデ「モモ」)に奪われているというのに、人々が怒りの感情を取り戻せないのはなぜなのだろう。
 怒り(angry)の源泉は飢え(hungry)である。肉体的であれ精神的であれ、hungryだからangryになる。hungryがなければangryもない。豊かさを手に入れた代わりに失ったものは怒りの感情。そして誰も彼もが無表情になってしまった。

 いや、いまの若者はhungryだというかもしれない。そう、メフィストに魂を売り、あるいは「灰色の男」に時間を取られ、代わりに裕福さを手に入れた親の世代と違い、彼らの子供世代以下は物心ついた頃からhungryが当たり前になっている。なのにangryがない。現状に疑問を感じなくなっている。他人の生活に関心がない。だって何かすれば「自己責任」だと言われてきたのだから。
 君達若者は知っているのかもしれない、大人世代のずるさを。「俺達の時代は・・・」「若い頃は・・・」「昔は・・・」、色んな言葉で言っても、結局、その時代を過ごしただけの通過儀礼みたいなもの、ファッションだったということを。
 いまはお腹にでっぷり肉が付き、青春時代の洋服が着られなくなった。だから脱ぎ捨てただけだ、と大人達は言うかもしれない。そうかもしれない。だけど、せめて筋は通そうじゃないか。政治家なら特に。


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