N の 憂 鬱-23
〜名前をなくした日々の始まり(6)
1等船室の浴室でホモに迫られる


 日本式風呂場、それは温泉地で見るような広い大浴場になっていたが、ボーイが風呂場の床タイルをデッキブラシで掃除していたところで「済みません。ここは掃除中で使えません。でも、ユアロッパスタイルならOKです」と日本語で洋式風呂の方なら使えるからと教えた。
 それを聞き、俺はああ、助かった、と思った。「ジャパニーズ オフロ ダイスキ」と言った手前、まさか洋式の風呂に入ろうとまで言わないだろうと思ったからだ。だが、男は一瞬考えた末、「ユアロッパスタイル」と指差し、サッサと歩き出した。

 ここで嫌だ、と断れば済む話だし、断るべきだった。だが、ここでもその機会を逃した。
 外国人にホモは多いといっても相手はそうではない可能性もあるし、純粋に汗を流しさっぱりしたいだけかもしれない。
 都合よくそう考え、またまた付いて行ってしまったのだ。

 西洋式風呂はバスタブに洗い場が付いた1人用の風呂で、男はサッサと裸になり軽くシャワーを浴びた後バスタブに漬かった。それを見届けてから俺も中に入り、まずシャワーを使った。すると男がバスタブの中に入れとジェスチャーで示した。
 そしてここでもまた都合よく考えた。今、振り返ればどこまでお人好しなのだと思うが、その頃はまだ世間ずれしていない純真な学生。ああ、洗い場でシャワーを浴びていると飛沫がかかるから、バスタブの中でシャワーを浴びろと言っていると解釈し、バスタブの中に入った。
 すると体を洗ってやると言ってきた。いや、言ったわけではない。シャボンを両手に付け背中を洗う仕草をしたから、そうだと理解したわけで、実際そうなった。
 背中が終わると正面を向かせ胸から腹の方へと手で撫でてきたから、手が腰の辺りまで下がってきたところで、相手を止め、今度は俺が奴の身体を同じようにシャボンを手に付けて撫でてやった。
 いや、外国人はそうしているのだろうと思い、お返しをするのが礼儀だと思ったからだ。できるだけ他のことは考えず、サッと撫でて終えた。

 ここまではまあ何事も起こらず、あれこれ考えたのは俺の思い過ごしかもと思った。その時、バスタブに立ったまま男が俺の両腕を掴み「strong arm」と言ってきたが、この英語が分からなかった。
 両腕を掴まれたまま2人の腕を見比べたが太さは似たようなもので、俺の腕が太く逞しいとは全く見えなかった。
 ???
 すると男が腕に力を入れて自分の方へ少し引き寄せようとした。そこでハッとして目線を下に下げ、それまで見ないようにしていた箇所を初めて見た。
 目に入ったのはソーセージをもう少し太くしたようなもので、それが水平になり俺の腹の方を向いていた。

 それを目にして、大江健三郎が書いていたことは本当だ、と理解した。
「No thank you」と叫び、バスタブを飛び出て、男が持ってきていた枕カバーで体を拭くのももどかしく服を着てその場を離れた。

 9月になり大学の講義が始まった後、中国史の教官の部屋に数人集まっていた時、その時のことを話すと「No thank youはよかったな。ははは」と笑われたが、他の言葉を知らなかったし、とっさのことで言葉を探す余裕はなかった。

 後になって大江健三郎の小説を色々読んでいてよかったと彼に感謝した。多少なりとも予備知識があったから最悪の状態にまで行くのは避けられたが、そういう知識さえなければ抵抗することもできず為されるがままになっていたかもしれない。

 逃げ場がない、というのは怖い。浴室からは逃げられたとはいえ船の中だ。相手が追って来て探すことは十分考えられるし、実際、その中年男はしばらくしてすぐ近くに現れた。
 だが、その間に俺は同乗した経済専攻の同級生を探して船内を走り回り、彼に一緒にいてくれるように頼んだ。もちろん風呂場でのことは話さずに、中年の外国人に話しかけられて困っているからとだけ伝え、もし近付いてきたら君が相手をして欲しい、と。
 そして、その男はやはり俺を探し当て近くに寄って来たが、友達が相手をしてくれている内に彼らのツアー仲間の女性が彼を見つけ話しかけ、2人は他の仲間達のところへ移動したのでやれやれだ。

 そうこうするうちに船は別府港に着いたので、男は下船するはずと思い、友達とデッキまで行き「見ていろ、あの男きっと手を振ってくるから」と告げ、2人で見ていると案の定こちらの姿を探すように船の方を振り返り、俺の姿を発見すると手を振って来たので、手を振り返し「Auf Wiedersehen」と叫んだ。
 Auf Wiedersehen(アウフ ヴィーダーゼーエン)はドイツ語の別れの挨拶で、英語のsee you agein、日本語に直せば、また会いましょうという意味だが、もちろん二度と会うつもりはないし、会いたくもないが、ドイツ人の彼に多少の皮肉を込めて言ってみた。

 本を読むことも留置場内で会話を交わすこともできない生活の中で3つ隣りの房から呼びかけてきた若いヤクザもんとの短い会話は束の間、思い出に浸らせてくれた。
                             (7)に続く
 


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