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AIは人を超えた存在になるか、なれるか(1)


栗野的視点(No.885)                   2026年2月19日
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AIは人を超えた存在になるか、なれるか
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 数日前、気の置けない友人達と5人で原鶴温泉に行ってきた。
もともとは昨年末、温泉地で1泊忘年会をする計画だったが日程調整がうまくいかず、それなら年が明けてから新年会をという話になり旧正月の頃に原鶴温泉に出かけた。

 途中、吉井の古い町並み散策を提案し、白壁通りや伝統建築の屋敷などを観て廻り、ホテルの送迎マイクロバスで5時前にホテル着。
 一風呂浴びて食事。その後、部屋で飲み直しと楽しい時間を共有したが、その時ちょっとした議論(?)が交わされた。

 吉井の写真は下記のブログ「栗野的風景」から
「吉井の町を歩く。」
   http://blog.livedoor.jp/kurino30/archives/52936808.html
「地方を旅する面白さ〜吉井町・神社仏閣のユニークな木鼻」
   http://blog.livedoor.jp/kurino30/archives/52936842.html

量から質への転化が起きたかAI

 議論の内容は「AIと人の関係」で、一方は「AIは驚くべき進化を遂げ、今や自ら考えるようになり、意思を持ち出したばかりか、感情すら持ち出した」と言い、もう一方は「AIはデータの集積であり、人間がデータを入力しているわけだから、人間の頭脳を超えることはできない」という、ある意味、人類の未来にも関わる問題。
 酔っ払って適当に議論するような問題ではないというか、多少酔っ払っているからこそ議論し合えたのかもしれない。

 真面目に考えるとこれはなかなか難しい問題で、一晩や二晩で答えが出るような話ではない。
 というのも最先端の研究結果を元に学術的・技術的に論じるのか、そこに人類の願望を込めながら論じるのか、あるいは一般的な受け止め方(AIとの付き合い方)はどうなのかなど、視点の置き方により議論の方向性は大きく変わるからだ。

 いや、そんなに難しく考えなくてもいい。酒の肴にざっくりとした話をしているだけだ、と言われるかもしれない。
 そう、地球温暖化の話とよく似ている。だが、この話は地球温暖化よりもっと身近に感じるのではないだろうか。
 というのもチャットGPTというAIはすでに身近な存在になりつつあるし、利用している人もある程度いるようだからだ。

 AIは所詮データの集積であり、そのデータは人間が入力したもの、という見方はその通りだと思うし納得できる。特に初期〜中期コンピューター時代は。
 だが今怖いのはAIが人間に近付き、人間の思考力を超えるかもしれないと思われる、感情に近いものまで持ちつつあるのではないかという「現実」だ。

 知識の集積、データの集積と言い換えてもいいが、かつて「知の巨人」と言われた人達が存在し、彼らは一般人をはるかに超える知識を有しているだけでなく、それらを駆使して思考していた。
 言い換えれば誰でも知識のインプットが進めば「知の巨人」に近付く、あるいはそう思われる「可能性」があるということだ。

 可能性があるといったのは「知の集積(知識のインプット)」=「知の巨人」とは成りえないからである。
 「知の集積」とはデータ量の増大であり、ただ単に量が増えただけであり、量が増えただけのものは「知の巨人」とは呼ばれない。
 では「知の巨人」と呼ばれる、呼ばれた人達は何が違うのか。
量の増大を質的に変化させて初めて「知の巨人」と呼ばれるわけで、そこには量から質への変化がなければならない。

 分かりやすい例を1つ紹介しよう。
水を容器に入れて熱すると水温がどんどん上がっていく。
この段階は量の増大である。
 ところが一定の条件下で、例えば大気圧1気圧下では水温が100℃に達すれば、熱せられた水が沸騰して気体になる。
 つまり水という液体が気体という質が違うものに変化したわけで、これを弁証法哲学では「量から質への転化」という。
                                     (2)に続く


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