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栗野的視点(No.877) 2025年11月30日
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壊れていく日本社会
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固定化された格差ー階級社会の出現
「1億総中流」と呼ばれた時代が日本にあった。
その頃の日本社会には頑張れば生活がより豊かになれるという希望があり、貧富の差は今よりは低く、それであるが故に平和で安全な社会だった。
その幻想はバブル経済期を経て徐々に、そしてこの10数年は急速に消えて行き、今では貧富の差(経済的格差)は社会的格差になり固定化されてしまった。
階級の出現である。
階級とは固定化された階層であり、流動的な階層とは別で、上流階級に生まれた子供は生まれながらにして上流階級であり、下流階級の人間はどんなに頑張っても上流の仲間入りはできない。
日本には階級は存在しなかった。農民の子供でも関白という貴族の最高位の称号を貰え、その地位に就けたし、家康の家系図もカネで買ったと言われるぐらいに家系図も怪し気だったが、実力次第で国のトップに就くことができた。
ただ品格は3代続いて初めて身に付くと言われるように成り上がり者はカネ、財産を持っていても品格は身に付かず、育ちのよし悪しは食事の仕方や立ち居振る舞いから自ずと分かる。
だから1代で成り上がった者は貴族や皇族に繋がる上流階級の子息女と結婚したり、子供を結婚させたがる。
言い方は悪いかもしれないが、縁戚関係を結ぶことで相手の系図に連なり上流階級入りを果たそうとするわけだ。
では、なぜ、かつては努力すればのし上がれたのに、階層が固定化されて階級化されてしまったのか。
もっと平たく言えば、なぜ貧乏人の子供は貧乏人(低所得者)のままなのか。二宮金次郎とか松下幸之助、最近ではCoCo壱番屋の創業者・宗次徳二氏の伝説がある。
それなのになぜ今はそう成れないのか。
団塊の世代から少し後の世代までにとっては不思議かもしれない。それは団塊の世代までは、言い換えれば「1億総中流」と言われた時代までは自称、他称を問わず中流層が圧倒的多数を占めていたから、その層を無視して様々な政策を決めることができないマジョリティー(多数派)だったからだ。
中流層が社会の決定権を握っていたと言ってもいいだろう。だが、それまで多数派層だった中流・中間層が統計上ほぼ消えたかマイノリティーになった(アメリカでも同じことが起こり、かつてはマジョリティーだった白人中流層が人口的にもマイノリティーになっている)ため、政権としてはどちらにウェイトを置いた政策を行うのかの選択を迫られることになる。
もちろんどちらか一方にウェイトを置いた政策のみを実施するわけにはいかないから、もう一方への配慮も考慮しながら政策を行うことになるが、ウェイトの置き方は自ずと異なってくる。
国の経済を動かしているのは下層民ではなく上層民であり、中小零細企業ではなく大企業である。
中小企業の数が圧倒的に多いと言っても、稼いでいる額や雇用している従業員数は大企業(中の上以上に位置する中小企業を含む)の方が多い。
そうなると稼ぎ額が多い企業・企業経営者の意見を聞くというのが資本主義的民主主義だが、中以下の低所得者層の意見は顧みられない、置き去りにされる。
「悪法もまた法なり」と言って死刑に処せられたのはソクラテス(実際には違うらしいが)と言われているが、もし、そうだとすればそれはソクラテスの大いなる誤りだろう。
いかなる悪法でも一度制定されてしまうと、それが規定になり市民の行動を拘束する。
要はソクラテス一人の問題ではなくなり、その他の、さらに後代の人間の行動をも拘束することになる。
それはミャンマーを始め後進国の独裁国家が実証している。
「悪法もまた法なり」と言って毒杯を飲み処刑されるソクラテス本人はそれでいいかもしれないが、哲学者として(であろうとなかろうと関係はないが)社会や後の歴史に影響を与えることを考えれば、「悪法は正さなければならない」と抗議行動を起こすべきだろう。
そういう意味では現代のミャンマーその他の抗議活動の方が進んでいる。
つまり悪法は正さなければならない。そして正すよう声を挙げ、行動に移すべきだ。そうして初めて事態は動いて行くし、動くまでアクションを続けるべきだ。
(2)に続く
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