デル株式会社

 


 質より量が力を持つ情報の怖さ(1)


栗野的視点(No.806)                   2023年8月24日
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質より量が力を持つ情報の怖さ
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 昔から連続物の大河ドラマは観ない。今で言えばNHKの「どうする家康」が多少それと言えるか。
 全く観なかったわけではなく、以前は観ていたが、少なくともこの20年程は全く観ない。理由は面白くないからだ。人によって「面白さ」の感じ方は違うだろうが、私は三谷幸喜的やNHK的なドラマに面白さを感じない。

 「史実ではなくドラマだから」と言われるが、両者を混同し、ドラマを史実と思い込んでいる人は多い。その典型が「宮本武蔵」だ。ほとんどの人が思い浮かべる武蔵は吉川英治作の宮本武蔵で、あれを小説(創作、フィクション)と分かって映画やTVで観ている人は少ない。
 例えば「吉川武蔵」に出て来る「お通」。あれを吉川英治の創作ではなく実在の人物だと思っている人は多いし、二刀流は寺で太鼓を叩くバチから思い付いたなどと信じている人が非常に多いことからもドラマや映画の影響を無視するわけにはいかない。

 映画やドラマの制作側は史実に忠実にと言うつもりはないが、あまりにも史実とかけ離れたことを皆が一様に描くのは考えものだろう。少なくとも脚本家、制作者によって描き方が変わって然るべきだろうと考えるが、皆が同じような描き方をすれば、それが事実と思い込まれかねない。要は量の多さが力になり、真実になる。
 そのことの恐ろしさを戦前・戦中世代は知っているはずだが、戦後世代が大半になると、その辺りの感覚が薄れてくる。そのことを証明したのがトランプ前米大統領だ。いまだに先の大統領選では不正が行われ、本来は自分が勝っていると言っている。そしてそれを信じている岩盤支持者たちがトランプの発言を繰り返して発信する。

 人は発信量が多い情報を信じる。そのことはナチスが行ったし、日本軍部も同じことを行い、国民に信じ込ませた。その片棒を担いだのが当時の新聞、ラジオといったメディアである。
 今でも声の大きい意見に引きずられる傾向はあるが、声の大きさ=大音量が、声の大きさ=発信量の多さに変わっただけで、TVや新聞といったメディアが発する情報量よりSNSで発せられる情報量の方が多い、あるいは同量になった結果、日常目にする情報量の多い方(SNS)を信じる人が増えてきている。

 情報は質(情報の信頼性)より量が力を持ち、目に触れる量が多いフェイクニュースがいとも簡単にトゥルー(真実)と受け取られていく。
 なぜ、そうなるのか。その情報が真実であるか否かを確認するのは大変(いくつかの他の情報と照らせあわせて判断する作業が)だからで、それより単純に目にする量の多い方を信じた方が楽だからだ。
 であるが故にフィクションであっても制作側は受け手の意見形成に影響を与えるということの自覚が必要である。

 ドラマなどを最後までよく見ていると「時代考証○○」という表示が出てくる。この時代考証って一体何なのか。調べて見ると案外細かいことに拘っている。だが木を見て森を見ずではないが細部に拘り過ぎて基本的なことを見逃すからドラマを見ていて違和感がある。
 例えば戦争末期の物資も乏しい時代にもかかわらず汚れてもツギが当てられてもいず、随分きれいな国民服やもんぺ姿を見ると「違うやろ」と言いたくなる。こういう箇所にこそ「時代考証」をして欲しいものだ。
 方言も同じで、「方言指導〇〇」と出てくる。たしかに脇役の俳優(有名な俳優でも)はしっかり方言を使っているのに、主人公の若い俳優が方言ではなく標準語で喋るのにも違和感を感じる。

 こうした点を上げればキリがない。江戸中期以降の既婚女性は眉を剃り付け眉を描き、お歯黒に染めていた。これは徳川幕府が未婚女性と既婚女性を一目で分からせるようにした制度だから、本来はその制度に則って既婚女性は最低限眉は剃るべきだが、太眉が流行った時代には太眉のまま演じている女優がいて、とても違和感を感じたものだ。
 映画やドラマで本当に眉を剃る必要はなく、白粉を塗り眉を目立たなくさせることは難しい技術でもなんでもない。
 にもかかわらず、その程度の指導もできない時代考証家、方言指導家って一体何なのか。私が彼らの立場なら自分の名前をクレジットで入れて欲しくないと抗議する。
                                        (2)に続く


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