栗野的視点(No.859) 2025年6月4日
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爛熟した文明と民族は滅びる。
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大阪で万博が華やかに幕を開け、身近な人達の中にも「行ってみたい」と無邪気に喜ぶ人達がいる。
彼、彼女達は万博(万国博覧会)を東京ディズニーランドと同列、新しいイベント会場に出かける感覚で捉えているように感じられる。
それが悪いと言っているわけではないが、この時期、なぜ万博なのか、我々は今どういう状況に置かれているのか。そうことを一考もせず単純に新しいイベントのオープンを喜ぶだけでいいのか。
70年大阪万博との共通点と違い
万博と聞けばどうしても70年の大阪万博を思い出す。あの時も多くの人々が湧き、会場を訪れ「太陽の塔」を見上げた。そう、大阪万博は岡本太郎氏の「太陽の塔」とともにあったのだ。
氏は「芸術は爆発だ」という言葉と手を広げる仕草でバラエティー番組などにも引っ張り出され一般大衆の知るところとなったが「芸術」を他の言葉に置き換えれば、当時の社会情勢を的確に捕らえた言葉だった。
ただ、バラエティー的に捕らえられ、氏の言葉と表現が広く、また正確に理解されるには、それからしばらく待たねばならなかったが、当時の社会は国内外を問わず古い価値観を壊し、新しい価値観を生み出そうとする「爆発」が随所で起きていた。
そういう時に開催された万博であり、未来への希望を暗示させる新しい技術も展示され、人々の気持ちをワクワクさせもしたが、その一方で当時、社会が抱えていた矛盾から人々の目を背けさせる役割も果たしていた。
70年万博と今回の万博は開催場所が大阪であるという点を除いても共通点が多い。
まず時代背景が似ている。ともに社会の矛盾が吹き出ており、社会的、経済的弱者が生きづらい世の中になっているにも関わらず、それとは無関係、無関心に(それらに気付かないのか、目を逸らしているのか、目を瞑っているのか分からないが)生きている人々が多い。
それを象徴するように今回の万博は人々に未来への希望を提示することすらできていない。話題になるのが「ミライ人間洗濯機」とは冗談かと思った。実際、最初「ミライ」を「ミイラ」と読み間違えた程で、これのどこが未来なのか。新しい技術なのかと疑ってしまった。
そう、「人間洗濯機」はすでに70年の大阪万博で展示されていたわけで、それから半世紀を経て蘇えった、まさにミイラ。
そこには何ら新しい技術、ワクワクさせるものはなく、現在あるものに少し手を加え、進化させた程度のものでしかない。
「空飛ぶクルマ」に至ってはすでにドローンがいろんな場面(主に戦場でだが)で実用化されており、そこに人が1人か2人乗るだけの話で新しさはない。
革新的、画期的な技術の提示に失敗しただけでなく、大屋根リングは当初4分の1をリユースすると言っていたが、実際は8分の1リユースがやっとらしい。
なぜか、と問うまでもなく、デザイン優先で木質を考えず、風雨に曝される場所に使えば、リユースに要する経費ウンウンの前に屋根材が使い物になるかどうか分かるはずだし、オープン前から一部でカビの発生も確認されていたという。
「木造建築」というが伝統的な木造建築ではないことも分かっている。ただ最近は「建物の柱や梁、壁などの主要構造部に木材を使った建築物」のことを「木造建築」と称しているようだから現代工法で鉄その他で補強していても問題ないらしい。
釘1本使わない伝統的木造建築ではないが、そこは目を瞑り、伝統工法で全面的に建築されたものでなくとも、「主要構造部に木材を使った建築物」であれば「木造建築」と称してもいいという解釈。
厳密な意味での木造建築ではないが大屋根リングは「木造建築」と称して海外に「日本らしさ」を宣伝する好材料で、ユネスコ無形文化遺産に登録された「和食」と同様。
釈然としないが、要は「ニッポン」を海外に売り込む宣伝材料で、インバウンド等、海外のカネに頼るしかないのが現状。
その結果、国内はますます2極化し、持てる者は旅行も教育も子育てもままなるが、持たざる者は明日を生きるのに必死で、社会の矛盾を一身に引き受け、喘いでいる。
ガソリンやコメ価格の高騰にしろ、その影響を受けるのは持たざる者、下層階級だけだが、70年万博の時と大きく違うのは下層階級が矛盾を指摘し、反抗するエネルギーさえ奪われてしまい、怒りを私的で、身近なものにしか向けられないことだ。
今回の大阪万博は未来を提示するというより過去への回帰といえる。革新性に行き詰まると過去に回帰するのはファッションも技術も同じで、歴史(過去)の焼き直しで新しさの演出を図る。
ワクワクする新しいものが出現しないから過去に新しさを感じ出すわけで、今の10代がアナログに新しさを感じているのと同じだ。
といってフィルムカメラやレコードといったアナログ製品が再度流行するわけではない。言うなら技術の行き詰まり、社会の行き詰まりである。
なかんづく社会は経済、政治、システムが行き詰まり、新しいものを生み出せず過去に学ぶのではなく回帰している。
(2)に続く
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